それは…………





 私はぴたりと、足を止めた。
 しんとして、あたりには誰もいない。外から風と共に生徒の笑い声や部活などに励む人たちの楽しそうな声が聞こえる。その他人事のような音と、爽やかな風に心を落ち着かせると、じっと目の前を見た。
 目の前にはドア。その上にある窓から蛍光灯の光が灯っているのを見ると、部屋の主は中にいるようだ。
 ネームプレートを確認した。そこには目的の人物の名前が入っていた。私はそっとドアをノックした。
 中から返事がしたので、ドアを開けて入った。
「失礼します」
 書斎独特の紙の古びた匂い、それとともに漂う馴染みのある香ばしい豆の香り。
 そこにはイスに座ってコーヒーを飲む三十代半ばの男――先生の姿があった。
「おっ、久しぶりー。よく来たな、どうぞ、こっちに座って」
 人の良さそうな人懐こい表情でこちらをみてくる先生。少し毛先がはねた茶色い髪、優しそうにそれでいて少年のような無邪気さのある同じ色の瞳。奥が深くて芯の通った、温かな茶色。この人の性格がよく表れている。あ、スリムダンク発見。先生、資料に間切れて散乱してます。しかも豪華版だし。
 先生が指し示すソファへ行くと、先生はコーヒーを作りに流しに行かれた。初めてここに来た頃はコーヒーなんていい、と言っていたけど今では諦めた。どうも先生はコーヒーを入れるのがお好きらしい。先生、鼻歌が聞こえます。
 私はソファに座ると、改めて先生の部屋を見た。
 窓際にある書斎机には資料が山ほど積み上げられている。執筆の途中だったのか、ノートパソコンは開かれたまま、そばで資料も両手を広げている。
 視線を少しずらすと本棚。窓のある壁以外にはびっしりと本棚に本が並んでいる。
 最下段には両腕にやっと抱えられるほどの大きさの画集のシリーズ。かと思えば文庫本ほどのサイズの論集が並んでいる。時たま古びたノートが並んでいるところがあったり、巻物らしきものもある。古い書物では江戸時代頃に出版された貴重な資料もある。そんなものの間に間切れて今流行りの小説やライトノベルもあるものだから軽く、カオスな状態とも言えるかもしれない。ある意味小さな図書室みたいな状態だ。
 それでも特にとても散らかっていると言う雰囲気はない。これだけの資料に囲まれてよく、整理できるなと感心する。
 ふいにブックスタンドのように違和感なく挟まっている写真立てに目が入った。そこには中学生のように目をきらめかせながら女の人に抱きつく先生の姿があった。女の人はと言うと、少し呆れたような嫌そうな顔をしていた。相変わらずだなぁ……と思った。うん、相変わらず溺愛してるんだな、奥さんを。私はふっと息を吐いた。
「あ、写真見てたのか?」
 先生の言葉に振りかえると、ちょうどコーヒーが私の前に置かれた。くゆる湯気、味わいのある芳香が漂う。……いい香り。
「ね、この写真見てたんだよなっ?」
 再び確認するように先生が言った。見ると、彼はにやにやしながら実に幸せそうに恍惚と笑んでいた――ブックスタンドのように立てかけてあったあの写真を見つめながら。
 また先生の病気が始まった。
 とりあえず、私はしばらく先生を放置することにした。こうなれば数分は写真にくぎ付けなのが日常茶飯事ということを私は知っている。
 この先生は変わっていることで有名だ。
 先生の専門のジャンルはすべて日本の民俗学の部類に入る。宗教学から地理学、歴史も一応網羅しているらしいからすごい。たしかに民俗学は範囲が広いから、色んな観点で物事を見る必要があるのだとか。その民俗学の中でも先生は特に――……
 暇つぶしに私は本棚にある本を一つ取り出した。それは「古今妖怪民話集」というタイトルのついたポケットサイズの書籍だった。
 そう、これが先生の専門。つまり妖怪学。この時点でまわりからかなり変わっていると言われている。加えて妖怪に対する知識が半端ないんだ。一つの妖怪のことに関する情報の多さと言ったら……先生が知らない妖怪なんていないんじゃないかな。
 ぺらりとページをめくると様々な魑魅魍魎の絵が描かれていた。それとともに文章が載っている。昔の人はほんとうに絵が面白いと思う。次に適当にページをめくると、なにやら獏の話の民話がでてきた。「獏生類末子譚」って書いてある。私は少しそれを読むことにした。
 少しでも妖怪に関連ある雑学を先生は飽きずにやっているから、先生はとても物知りで記憶力がいい。それに見た目は面倒見がよくてまぁかっこいいと言えると思う……奥さん溺愛の変人と言われているけど。
 読み終わり、ぱたんと本を閉じて棚に戻すと私は先生の方を見た。……まだ写真を眺めていらっしゃった。
「先生」
「ん? なあに? オレの奥さん可愛いだろ?」
「……え? まぁ、そうですね。日本美人という感じの――いや、そうではなくてですね」
「だよな? この写真はさ、つい先週撮ったやつなんだよな。この照れてる顔とかほんとかわいーよなぁ」
 ……先生、それ嫌がってますよね、完全に。しかも私がしたかったのはその話じゃないのですが。なんだか先生を胡乱な眼で見てしまった。でも本人はそれに気づいた様子もなく目の前に別の写真を見せてきた。
「あ、そうそうこれ見てうちの子も写ってるやつ」
「……可愛い」
 けどちょっと虚ろな眼している。小学生なのになんでこんな悟ったような表情?
「だろぉ? うちの子どもがこれまたあいつに似てさ、すんげぇ可愛いのなんのって」
「……あの」
「でもこれ、ちょっと失敗なんだよな。撮りすぎたからか妙に大人ぶった顔つきになってさ。ま、この表情も可愛いんだけど」
 先生、先生、お子さん、可哀想。ちょっと注意深く見ると涙目ですよ、先生。
「性格はオレに似たんだけどさ、ちょっとした時のしぐさなんてあいつそのもので、妻と並べたらもうご馳走様さ。もうご満悦です。いやいや、あいつなら何杯でも頂くがな」
「そうですね、先生ならお腹破裂しても恍惚と「おかわりっ」って言ってそうですね」
「まさかぁ。腹が破裂したら今まで頂いたあいつらが勿体ねーじゃねーか」
 ……先生、満面の笑みを浮かべてますけど真剣な目つきで言わないでください。というか話がおかしいことに気付いてください。
「……野暮な質問ですが、この間来た時あった奥さんの写真、どこか行きましたね」
 話を別の方向に持っていくことにした。……まぁあまり方向が変わってない気もするけど。
「ああ、あれ?」
 事もなげに言う先生。すると懐からふいに鍵を取り出した。何の変哲もない鍵だった。
「大丈夫、ちゃんとアルバムの中に入れたから」
 爽やかな笑顔で答えると先生は書斎机の引き出しに歩みよると、取り出した鍵を引き出しに差し込んだ。
 一番下の引きだしがガラッと開かれる。
 書類と共に箱があった。しかも暗証番号式のロックつき。それも解除すると、先生は中のものを出した。手の中にはなんとも妖しげな札のついた分厚い本が。
……魔書?
「ほいっと」
 って先生お札とりましたよ。あれ、いいんですか、呪いとか。
「これこれ、これのことでしょ?」
 本の中から何かを抜き取ると、先生はそれを目の前に出した。そこには間違うことない先生の奥さんの写真。無表情の奥さんが稀にしか見せないという、はにかみ顔の写真。というよりタイミング良く、写真に収める先生に私は少し驚きだ。
「……これです」
 色々な考えが交錯しながら私は言った。
「だろ? 写真うつりいいんだよこれ。これオレのお気に入り」
 少々話がかみ合ってないのですが。と言いますか私、声に出してませんでしたよね。
 突っ込みたい気持ちを抑えて私は別の気になっていたことを聞いてみた。
「一つお聞きしていいですか」
「ん? どうぞ?」
「それは呪いの書ですか」
 私は先生の手元にある分厚い本を見た。先生のもう片方の手にはお札がひらひら。大丈夫なのだろうか、封印を解いて。
「いや、違うよ」
 私がお札を見ていたことに気付いたのか、先生は笑った。
「見る? オレの妻アルバム、ザ・ベスト」
 どんっとテーブルに乗る音。そしてうっきうきと先生はその本を開いた。
 そこには奥さんの写真がずらっと並んでいた。時々先生やお子さんも映っていたけど見渡す限り奥さんの写真。しかも几帳面にいつ撮ったか、どんな場面か書かれている。この本、いや、アルバムA4より一回り大きいサイズだし、軽く百ページはある。なのにどのページもめくる限り写真が敷き詰められている。
「あの、これって、奥さん?」
「うんっ」
 あの先生、可愛らしく言われましても……これ、すごい通り越してホラーです。というか壮観です。
「これはいつも持ち歩いてるやつだけど、そろそろ家のやつのと整理しなきゃな」
 確か先生の家には山ほどあると冗談かと思った話を私は思い出した。うん、だってこれ、「アルバムザ・ベスト」ですよね。まだあるんですよね。
「……重たくないですか」
「あいつへの愛に比べればちょろい」
……愚問だった。
 事もなげに言う先生に微笑んだ。もうここはほほ笑むしかない。この先生と付き合うには多少のことでは動じてはいけないのだと、知りあって半年になるけどわかった。
「あの、この寝ている間に撮ったと思われる写真は」
「ああ、うん、これオレのベスト20。実はあまりの可愛さに撮っちまって」
 照れながら言ってもやっていることは恐ろしいですよ。
「奥さん、この写真集のことをご存じなんですか」
「いや、一部しか知らない」
奥さん、ガンバレ
「そろそろ今日あたりまた写真うつそっかな。三日ぶりだし」
「あの十分最近だと思われますが」
「本当は一日十枚くらい撮りたいところだ。それでもあいつの可愛さは写真に収めきれないけどな」
 遠慮気味に言う先生。先生、やっていることに遠慮がありません。と言いますかもっと遠慮してください。自重してください、奥さんのためにもご自分のためにも。
 今更ながら私は先生の溺愛ぶりに……もう、感心した。この頃微笑ましいと思う域に達し始めたのは末期だろうか。私はアルバムをめくりながら日付の所を見た。確実に1週間に三十枚くらいは撮っている。しかも家にはまだアルバムはあるというのだから……奥さん、頑張れ、奥さん、負けないで。