※注記

 これは「それは…………」のオリジナル版です。実は尾ひれはひれついています。
 ですが先生のイメージが損なわれる可能性があるのでここで、注記させていただきました。
 たいして必要のなかったことかもしれませんが、念のため。
 少しでも浮気しているような描写がいやな方は読まないほうがいいです。
 それでもよい!
 と、いう方はページスクロールで進んでください。
































それは、本当は…………






― それは恋に似た感情だったかもしれない ―

 私は人が嫌いだ。
 いや、人を嫌いそしてとても汚い所ばかり見える自分が嫌いだ。こんなことを思う自分も嫌いだ。人の視線を気にする自分も嫌いだ。綺麗事ばかり思う自分も嫌い。つまり、極端な自己不信と自己嫌悪なのだ。そしてそんな自分さえも嫌。
 だからこんな自分と話してくれる友だちは大好きだし、色々とちょっかいを出してくる兄弟も嫌いじゃない。本当にありがとう。面と向かっては恥ずかしいから言えないけど。
 自分のことを避け、嫌みや陰口を言ったあの子たちも、言われてもしょうがないし、むしろ申し訳なく思っている。自分は仲良くしようと努力しなかったし、「キモイ」と言われてもその通りだと思う。人は嫌な言葉を言うと、言った本人も目に見えてなくても傷つくから、そんな醜いことをさせてごめんなさいと、今振り返っても思う。いつか、言えたらいいけど。
 そんなだから、こんな自分が親に捨てられたに近いことをされて泣いても、妙に心の奥では納得してしまったのかもしれない。自分は愛されるに値されない存在なんだって。
 いや、これすらもすべて綺麗事なのかもしれない。
 本当はとても傷ついた。皆の動作に逐一落ち込んで、泣きたくなってみんな嫌いになった。それは自分が変わればどうにかなったのかもしれないけど、変わり方なんて知らない。どうして自分が嫌われたのかわからない、だって誰も言ってはくれない。わかったのは否定されたという事実だけ。
 でも本当は自分から真実を知るのが怖かったのかもしれない。これ以上怖いものを見てしまうんじゃないかと。これ以上傷つきたくないと。
 しかし同時にどうしてと、怒りにも似た感情を抱いた。だからなにか言おうとしたんだけど、私は見えない真実を恐れて言葉を飲み込んだ。これ以上傷つきたくない。そんな気持ちが私を「黙る」という行動にさせた。それに頑張って言葉にしようとした時、それがとても自分にとって大切なことであるほどどうしても言うのに時間がかかってしまう。結果、皆にはただ「黙ってる」と思われて、そのうち言う機を逃してしまう。そしてどんどんわけのわからない鉛のようなものが心の奥で蓄積していった。
 それにそれらは悩んでも時が決してくれた。特に自分が努力しなくても時間は過ぎていく。そのうち事実が薄れ、大抵のことはそんなに問題ではなくなる。ただ消化不良の私の気持ちが小さな靄となって、体の中にどんどん蓄積していったのを除いて。でもそれを私は誤魔化すように意識しないようにしていた。
 それが自分の心に目に見えない枷をつけ、どんどん身動きが取れなくさせたのかもしれない。だからそれが余計私を消極的にさせ、自分の気持ちや意見を言うことを抑制させる結果になった。
 こうした繰り返しの中、私は自然と逃げる方法を選んでいくことになった。
 そしてそんな自分をどんどん嫌いになった。立ち向かう努力をろくにせず、ただ嘆くばかり。自分のことばかり考えてまわりが解決してくれると思っている自分に嫌悪を抱いた――憎むほどに。
 でも自分を嫌った人達のことは憎むまではいかなかった。
 それだけ他人に対して興味がなかったということもあるのかもしれない。でもなによりもさびしかった。嘘でもいいから誰かそばにいてほしかった。でも傷つきたくはない。変な矛盾だ。
 だから頑なになった心は、人と自分の間に線を引くことにした。
 傷つかないようにあまり深いつきあい方はしない。むやみに踏み込まない。荒波を立てない。
 それは友達すら信用しないということになるのかもしれない。
 でもリスクを負ってまで深く付き合う方法がわからなかったから、そうするしか自分は方法を知らなかった。
 人を好きになったことがない。それはもしかしたらその「線」のせいかもしれない。それとも自分は本当は冷めている人間なのか。わからない。
 そういった様々な理由で自分に嫌気がさした。一番憎いのは、とか一番嫌いなのは誰、とか聞かれたら間違いなく「自分だ」と答える自信がある。それだけ自分と言う人間を見放してたから。
 だから、あの人の言葉はとても新鮮だったんだ。自分がそんな風に見られていると知って、そういった良いところがあると知って、とても、嬉しかったんだ。自分はいてもいい存在なんだと、「ここにいてもいいよ」と言われたような気になったから。もしかしたら心の最も奥のところで親に捨てられた自分が、あの人のことを自分の父の代わりのように思ってしまったのかもしれない。
 自分はここにいていいのだという、包み込むような父の愛情に似たものを求めたのかもしれない。
 私はぴたりと、足を止めた。
 しんとして、あたりには誰もいない。外から風と共に生徒の笑い声や部活などに励む人たちの楽しそうな声が聞こえる。その他人事のような音と、爽やかな風に心を落ち着かせると、じっと目の前を見た。
 目の前にはドア。その上にある窓から蛍光灯の光が灯っているのを見ると、部屋の主は中にいるようだ。
 ネームプレートを確認した。そこには目的の人物の名前が入っていた。私はそっとドアをノックした。
 中から返事がしたので、ドアを開けて入った。
「失礼します」
 書斎独特の紙の古びた匂い、それとともに漂う馴染みのある香ばしい豆の香り。
 そこにはイスに座ってコーヒーを飲む三十代半ばの男――先生の姿があった。
「おっ、久しぶりー。よく来たな、どうぞ、こっちに座って」
 人の良さそうな人懐こい表情でこちらをみてくる先生。少し毛先がはねた茶色い髪、優しそうにそれでいて少年のような無邪気さのある同じ色の瞳。奥が深くて芯の通った、温かな茶色。この人の性格がよく表れている。あ、スリムダンク発見。先生、資料に間切れて散乱してます。しかも豪華版だし。
 先生が指し示すソファへ行くと、先生はコーヒーを作りに流しに行かれた。初めてここに来た頃はコーヒーなんていい、と言っていたけど今では諦めた。どうも先生はコーヒーを入れるのがお好きらしい。先生、鼻歌が聞こえます。
 私はソファに座ると、改めて先生の部屋を見た。
 窓際にある書斎机には資料が山ほど積み上げられている。執筆の途中だったのか、ノートパソコンは開かれたまま、そばで資料も両手を広げている。
 視線を少しずらすと本棚。窓のある壁以外にはびっしりと本棚に本が並んでいる。
 最下段には両腕にやっと抱えられるほどの大きさの画集のシリーズ。かと思えば文庫本ほどのサイズの論集が並んでいる。時たま古びたノートが並んでいるところがあったり、巻物らしきものもある。古い書物では江戸時代頃に出版された貴重な資料もある。そんなものの間に間切れて今流行りの小説やライトノベルもあるものだから軽く、カオスな状態とも言えるかもしれない。ある意味小さな図書室みたいな状態だ。
 それでも特にとても散らかっていると言う雰囲気はない。これだけの資料に囲まれてよく、整理できるなと感心する。
 ふいにブックスタンドのように違和感なく挟まっている写真立てに目が入った。そこには中学生のように目をきらめかせながら女の人に抱きつく先生の姿があった。女の人はと言うと、少し呆れたような嫌そうな顔をしていた。相変わらずだなぁ……と思った。うん、相変わらず溺愛してるんだな、奥さんを。私はふっと息を吐いた。
「あ、写真見てたのか?」
 先生の言葉に振りかえると、ちょうどコーヒーが私の前に置かれた。くゆる湯気、味わいのある芳香が漂う。……いい香り。
「ね、この写真見てたんだよなっ?」
 再び確認するように先生が言った。見ると、彼はにやにやしながら実に幸せそうに恍惚と笑んでいた――ブックスタンドのように立てかけてあったあの写真を見つめながら。
 また先生の病気が始まった。
 とりあえず、私はしばらく先生を放置することにした。こうなれば数分は写真にくぎ付けなのが日常茶飯事ということを私は知っている。
 この先生は変わっていることで有名だ。
 先生の専門のジャンルはすべて日本の民俗学の部類に入る。宗教学から地理学、歴史も一応網羅しているらしいからすごい。たしかに民俗学は範囲が広いから、色んな観点で物事を見る必要があるのだとか。その民俗学の中でも先生は特に――……
 暇つぶしに私は本棚にある本を一つ取り出した。それは「古今妖怪民話集」というタイトルのついたポケットサイズの書籍だった。
 そう、これが先生の専門。つまり妖怪学。この時点でまわりからかなり変わっていると言われている。加えて妖怪に対する知識が半端ないんだ。一つの妖怪のことに関する情報の多さと言ったら……先生が知らない妖怪なんていないんじゃないかな。
 ぺらりとページをめくると様々な魑魅魍魎の絵が描かれていた。それとともに文章が載っている。昔の人はほんとうに絵が面白いと思う。次に適当にページをめくると、なにやら獏の話の民話がでてきた。「獏生類末子譚」って書いてある。私は少しそれを読むことにした。
 少しでも妖怪に関連ある雑学を先生は飽きずにやっているから、先生はとても物知りで記憶力がいい。それに見た目は面倒見がよくてまぁかっこいいと言えると思う……奥さん溺愛の変人と言われているけど。
 読み終わり、ぱたんと本を閉じて棚に戻すと私は先生の方を見た。……まだ写真を眺めていらっしゃった。
「先生」
「ん? なあに? オレの奥さん可愛いだろ?」
「……え? まぁ、そうですね。日本美人という感じの――いや、そうではなくてですね」
「だよな? この写真はさ、つい先週撮ったやつなんだよな。この照れてる顔とかほんとかわいーよなぁ」
 ……先生、それ嫌がってますよね、完全に。しかも私がしたかったのはその話じゃないのですが。なんだか先生を胡乱な眼で見てしまった。でも本人はそれに気づいた様子もなく目の前に別の写真を見せてきた。
「あ、そうそうこれ見てうちの子も写ってるやつ」
「……可愛い」
 けどちょっと虚ろな眼している。小学生なのになんでこんな悟ったような表情?
「だろぉ? うちの子どもがこれまたあいつに似てさ、すんげぇ可愛いのなんのって」
「……あの」
「でもこれ、ちょっと失敗なんだよな。撮りすぎたからか妙に大人ぶった顔つきになってさ。ま、この表情も可愛いんだけど」
 先生、先生、お子さん、可哀想。ちょっと注意深く見ると涙目ですよ、先生。
「性格はオレに似たんだけどさ、ちょっとした時のしぐさなんてあいつそのもので、妻と並べたらもうご馳走様さ。もうご満悦です。いやいや、あいつなら何杯でも頂くがな」
「そうですね、先生ならお腹破裂しても恍惚と「おかわりっ」って言ってそうですね」
「まさかぁ。腹が破裂したら今まで頂いたあいつらが勿体ねーじゃねーか」
 ……先生、満面の笑みを浮かべてますけど真剣な目つきで言わないでください。というか話がおかしいことに気付いてください。
「……野暮な質問ですが、この間来た時あった奥さんの写真、どこか行きましたね」
 話を別の方向に持っていくことにした。……まぁあまり方向が変わってない気もするけど。
「ああ、あれ?」
 事もなげに言う先生。すると懐からふいに鍵を取り出した。何の変哲もない鍵だった。
「大丈夫、ちゃんとアルバムの中に入れたから」
 爽やかな笑顔で答えると先生は書斎机の引き出しに歩みよると、取り出した鍵を引き出しに差し込んだ。
 一番下の引きだしがガラッと開かれる。
 書類と共に箱があった。しかも暗証番号式のロックつき。それも解除すると、先生は中のものを出した。手の中にはなんとも妖しげな札のついた分厚い本が。
……魔書?
「ほいっと」
 って先生お札とりましたよ。あれ、いいんですか、呪いとか。
「これこれ、これのことでしょ?」
 本の中から何かを抜き取ると、先生はそれを目の前に出した。そこには間違うことない先生の奥さんの写真。無表情の奥さんが稀にしか見せないという、はにかみ顔の写真。というよりタイミング良く、写真に収める先生に私は少し驚きだ。
「……これです」
 色々な考えが交錯しながら私は言った。
「だろ? 写真うつりいいんだよこれ。これオレのお気に入り」
 少々話がかみ合ってないのですが。と言いますか私、声に出してませんでしたよね。
 突っ込みたい気持ちを抑えて私は別の気になっていたことを聞いてみた。
「一つお聞きしていいですか」
「ん? どうぞ?」
「それは呪いの書ですか」
 私は先生の手元にある分厚い本を見た。先生のもう片方の手にはお札がひらひら。大丈夫なのだろうか、封印を解いて。
「いや、違うよ」
 私がお札を見ていたことに気付いたのか、先生は笑った。
「見る? オレの妻アルバム、ザ・ベスト」
 どんっとテーブルに乗る音。そしてうっきうきと先生はその本を開いた。
 そこには奥さんの写真がずらっと並んでいた。時々先生やお子さんも映っていたけど見渡す限り奥さんの写真。しかも几帳面にいつ撮ったか、どんな場面か書かれている。この本、いや、アルバムA4より一回り大きいサイズだし、軽く百ページはある。なのにどのページもめくる限り写真が敷き詰められている。
「あの、これって、奥さん?」
「うんっ」
 あの先生、可愛らしく言われましても……これ、すごい通り越してホラーです。というか壮観です。
「これはいつも持ち歩いてるやつだけど、そろそろ家のやつのと整理しなきゃな」
 確か先生の家には山ほどあると冗談かと思った話を私は思い出した。うん、だってこれ、「アルバムザ・ベスト」ですよね。まだあるんですよね。
「……重たくないですか」
「あいつへの愛に比べればちょろい」
……愚問だった。
 事もなげに言う先生に微笑んだ。もうここはほほ笑むしかない。この先生と付き合うには多少のことでは動じてはいけないのだと、知りあって半年になるけどわかった。
「あの、この寝ている間に撮ったと思われる写真は」
「ああ、うん、これオレのベスト20。実はあまりの可愛さに撮っちまって」
 照れながら言ってもやっていることは恐ろしいですよ。
「奥さん、この写真集のことをご存じなんですか」
「いや、一部しか知らない」
奥さん、ガンバレ
「そろそろ今日あたりまた写真うつそっかな。三日ぶりだし」
「あの十分最近だと思われますが」
「本当は一日十枚くらい撮りたいところだ。それでもあいつの可愛さは写真に収めきれないけどな」
 遠慮気味に言う先生。先生、やっていることに遠慮がありません。と言いますかもっと遠慮してください。自重してください、奥さんのためにもご自分のためにも。
 今更ながら私は先生の溺愛ぶりに……もう、感心した。この頃微笑ましいと思う域に達し始めたのは末期だろうか。私はアルバムをめくりながら日付の所を見た。確実に1週間に三十枚くらいは撮っている。しかも家にはまだアルバムはあるというのだから……奥さん、頑張れ、奥さん、負けないで。彼女の苦労がうかがい知れたので、二度心の中で言った。
「うん、この写真見ると俄然やる気が出てきた」
「先生自重してください、じゃないと愛想つかれますよ」
 思わず奥さんとお子さんのためにはっきりと言ってしまった。
 途端に先生の表情が固まる。
「あ、そ、だね。ちょっとこの頃オレも行きすぎたかなと思って、て……」
 ものすごい汗が先生の額からにじみ出て、笑いも青ざめていた。
「だから、その、一日、一枚で頑張ろうと、頑張ろうと……我慢していたところで今日で、一週間……」
 先生はあははと笑った。奥さんに怒られたのかな、はたまたお子さんか。でもちゃんと頑張っている先生はすごいと思った。先生の溺愛っぷりを見ていると、相当我慢していることがなんとなく、わかった。けどその努力を私はふいに羨ましくなった。
 私は本当の努力なんかしたことない。だって期待してしまうじゃない。自分が望んだことが叶うと。でも叶わなかった時に悲しい想いをするくらいなら私は努力しない。いつもそうしてきた。諦めてきた。
 ……なのにいつもうまくいかない。かっこ悪い。だから少しあがいてみて挑戦してみても、これもうまくいかない。虚しくなった。そして私をどんどん嫌いになる。
 少し、心の奥が冷めた気がした。
「……だったら写真なんかより実物に触れたらいいじゃん」
 まだ手をつけていなかったコーヒーを飲むと私は言った。苦い味が口内に広がる。
「先生は……とても奥さんを好きなのはわかります。でも愛情表現をもう少し別の形に変えるべきでは?」
 黙る先生。
 その沈黙に私ははっと気づいた。
「……申し訳ありません。先生にさしでがましいですね」
「あ、あのじゃあどうすればいいと思う?」
 照れながら先生が言った。
「女心とかわからないから、もしよければ」
 これは女心どうこうの話ではないですよね。
 私はコーヒーカップを下した。
 先生、私、恋なんてしたことないからわかりません。私に聞かないでください。そう言いたいけど言えない。なんだか落ち込んできた。
 私は目を瞑ってから再び目を開くと言った。
「……直接本人に言葉で伝えたらいかがですか? こう、人前でというより家で」
「それがすでにやってるんだな」
 ため息をつきながら言う先生。……ありきたり過ぎたか。
「朝のおはようと一緒に「愛してる」って言ってるし、目を合わせたら「大好き」って伝えてる。「可愛い」とか「綺麗だね」とか日常茶飯事だし」
 なるほど、奥さん堪えますねこれ。なんだか想像できてこの場にいない奥さんにエールを送った。そして次の解決策を提案してみた。
「……スキンシップはどうでしょう?」
「毎食後リビングで膝の上に抱いて一緒にテレビを見るけど。あといつでも頭をなでてやるとか、あいさつ代わりの抱擁はいつものことだし」
 ……先生、私、先生なめてました。想像してましたが本当にされてたんですね。もう降参です。
 私はとりあえず、私には力不足だと言って謝った。先生はそっかあと言って笑っていた。と、思いきやまた顔がにやけてる。奥さんのことを思い出しているのだろうか。ちょっと怖い。そして少しぽっかりと胸に穴があいたような寂しさを感じた。
 先生は本当に奥さんを愛している。奥さんは先生にとって本当に特別な存在なんだ。
 けど……。
 私はほほ笑んだ。先生がとても幸せそうだったから。先生の笑顔を見れてちょっとよかった。先生の笑顔は私の落ち込んだ心を軽くして温かくしてくれる。なんだかわからないけど、ほっとした。だからいい。これ以上は望まない。この曖昧で穏やかな感じが私は好きなんだから。
 私は再びコーヒーを口に含んだ。さっきより少し慣れた舌。けど少し苦い。
「おたずねしていいでしょうか」
 私は不意に疑問に思っていたことを言った。
「なにかな?」
 先生がこちらを見た。
「あのアルバム、どうしてあんなに鍵やら……お札みたいなものまでされているのですか」
 きょとんとする先生。じっと私はテーブルを見た。そこには妖しい雰囲気があふれんばかりに漂うお札。あれ、神社の名前がないこれ。というか、これ手書き? 確か知り合いに陰陽師がいたとか聞いたけど、その人かな。
「え、だって万が一にも誰かに見られたら困ります」
 ……先生にも困ることがあるのですね。妙に神妙に言われて一瞬自分がおかしなことを言ったような気になった。
「錦の愛らしすぎる写真が盗まれたら、と思うとね。ついつい厳重に」
 ……厳重にもほどがある。ただのアルバムなのに。いや、これを誰かに見られたら完全にヤバいという意味では……極秘書か、禁書か。
 先生らしすぎる答えにくすりと私は笑った。
 でもふと思った。
「そんな大切なアルバムを私は見てよろしかったのですか?」
「君はいいんだよ。オレの話を聞いてくれたから」
 その言葉に私は黙ってしまった。また、いつもの癖。
 どうして黙るのか。
 それは涙を我慢しているから、言いたいことがたくさんあって、でもそれを今いってしまうと泣きそうになるから必死で我慢してる。
 涙は流してしまうと別の意味に変わるから。泣くとなにも言えなくなるから。
 今までそうしてきた。
 けど先生、先生の場合は少し違うんだ。とてもうれしくて、でもほんの、本当にほんのちょっと切なくて、この気持ちを言葉にできないほど、なにかで胸がいっぱいに満たされるから話せないんだ。
「私も、先生と出会えて話せて、とても楽しくて大切な時間だと思ってます」
 とてもうれしかった。
「――……だな」
「はい?」
「君ってさ、ちょっと似てるんだよな」
「え?」
「ちょっと感情表現とか苦手なとことか? 雰囲気? うーん……どうも弱いなそういうの」
 困ったような顔をしながら頭をかく先生。……何の話だろう。
「もし錦に会ってなくてもう少し若かったら、君にプロポーズしてたかもな」
 一瞬、頭が停止した。
 なんですか、その、漫画や恋愛小説などに出てきそうなセリフ。え、なにこれ。現実に先生がそのセリフを言ったというあまりの衝撃に、先生を瞬きもせずに見ていることだけしかできなかった。
 私はぎゅっと手を握った。手が暑い。これは、なんだろう。
「ま、冗談は置いといて。というよかむしろ娘が大きくなったらこんな感じ、かな」
 あははと笑う先生。そんなに時間をあけずに言った気がする。
 変わらない先生の態度。
 でも先生の言葉は、先生が先ほどのセリフを言ったという事実を再確認させる結果となった。つまり聞き間違えではなかったということを私は改めて知った。
「……先生」
 それって……
 先生が見えないところで私は自分の手をぎゅっと握りしめた。
「二十歳くらいで子持ちですか」
「ははっ、そうだな」
 手を打つとおーっとと言いながら納得顔の先生。その表情に私は少し肩の力を抜けてしまった。
「……私も先生みたいな父、嫌いじゃないです」
 そんな少年のような無邪気さに私はくすりと笑みをこぼした。すると先生は笑った。それに私も笑う。
 自分で意識している限りでは私は恋なんてしたことがない。
 でも……
 胸に広がる暖かくて、水面に漂うような希薄で少し切なくなるような気持ちを私は心地よく感じた。
 たぶんこれは恋にも似た気持ちなんだろう。私はこの人の純粋なところに少なからず、好意を抱いている。でも恋にしてはとても未熟で穏やかな気持ち。
 父に対する愛情にも似た気持ち。
 そう思うことにした。
 ただ、ずっと何年たってもこの人のとなりでこうして時々他愛のない話をしたいと、心の奥で強く思った。
 恋人という関係ではなく、恩師と教え子、友達として。
 本当は先生に「プロポーズしてたかもな」と言われた時嬉しかったです。冗談だったのかもしれないけど。でもこの気持ちは言いません。このままが一番私にとって心地よい。だから……
「先生」
「なんだ?」
 先生がこちらを見る。温かな茶色い目。大好きな温かな色。
― 私も先生が奥さんと出会ってなくて、もう少し歳が近ければ告白してたかもしれないです ―
 そう心の中だけで呟いた。代わりに私は言った。
「……そう言えば、もうすぐ妖怪イベントがあるそうですね」
 その言葉におっと先生が笑った。
「ああ、よく知ってるな」
 先生はもちろんご存じらしい。さすが妖怪学者だ。逆に私が知っていたことに驚いたみたいだ。確かに地元じゃないからなぁ。でも私は知っててもおかしくない。だって……。
「だって大好きですから、妖怪」
「ん、そうか」
 そう私は大の妖怪好き。とは言ってもそんなに妖怪知識が豊富ではないけど。
「……いつか本物の妖怪に会ってみたいものですね」
 しみじみと呟いた。これは本気で思っていること。私は霊感もないし、そういった存在を見たことがないけど、どこかしら本当はいるんじゃないかと信じてる。そう考えるのは変わっているというか、白けた目で見られるから友達には言わないけど。先生になら言っていい気がした。
 私はコーヒーを飲んだ。苦みが味わい深くておいしく感じられた。
 あーしかし急にコーヒーの中から出てこられても困るけど。でもそれでもいっかな。
「そりゃ妖怪達も喜ぶな」
「そうですかね」
「君ならきっと喜ぶよ」
 そんなこと言うのは先生くらいですよ。ふっと笑うと私はちょっとうれしくなった。先生が言うなら本当にそんな気がしてきた。もしかすると先生は実際妖怪と友達なのかもしれないという考えさえよぎってしまう始末だ。うん、妄想し過ぎかな。
 でも妖怪ってほんとは身近にいるはずだからどこか、見逃してたりして。
 その時ふいに茶色の長髪、すらりと伸びた長身、そして不思議な色……というか、雰囲気を帯びた瞳を持つ男の人が浮かんだ。
 なんでだろう、なぜか急に思いだした。
「そう言えば、こないだ先生の部屋に来たとき男の人がいましたけど、あの人先生のご兄弟ですか?」
「え?」
 突然話を変えたからか、先生は分からないと言うように首を傾げた。
「あの、髪の長い……えーと、狸みたいな人です」
「え!? あいつが狸に見えたの!?」
 先生はものすごく動揺しながら声をあげた。本当にびっくりするほど目がお見開きなさっている。あ、いや、確かに今の言い方だと誤解を生んでも仕方がないかも知れない。ほんと、なんで私、「狸みたい」とか言ったんだろう。
 冷静に考えて自分の口から出た言葉に疑問がわいた。
「あ、いえ、狸みたいな雰囲気だな……と思いました」
「あ、そうなんだ。うん、兄みたいなもん」
 少し慌てた様子の先生を相変わらず変な人だなぁと思いながらも私は「そうですか」と答えながら笑った。変なのは私も、か。