「あるじ様ぁああああ!!」 「うおおおおお!?」 唐突に自分に向けられた叫び声。突進するように来た女に押し倒された俺は、本気で胆を抜かれた。見知らぬ女しかも、押し倒されたと言う失態に俺は相手を睨みかけた。 が、彼女の嬉しそうで愛おしく恋焦がれた瞳を見るとなにも言えなくなった。彼女の瞳から流れた涙とこげ茶の長髪、そしてこちらを見る彼女の必死な表情が綺麗で、俺はその瞬間から彼女を魅入ってしまったのかも知れない。 * * * 「あ、あ、あ! このニオイ、ケハイ、やっぱりホンモノのあるじ様だぁあ」 すりすりと擦り寄ってくる女に我に返り、彼女の肩を両手でがっと突き放すと俺は起き上がった。 「だ、誰だ? お主に面識した覚えはないぞ!?」 そうは言ったものの、相手は聞いていない。もう一度俺は相手をよく観察してみた。 歳は15、6か、もしかするとそれよりも幼く見える。彼女の腰まである長髪はぼさぼさで泥まみれだ。それに着物はほこりや泥で薄汚れた白の袴で、腰に巻いてある帯はやはり色あせた藍。ほぼ寝巻きに近い。それに足は素足だ。妖気は感じないし、人間の女子か。 そこでふと俺は彼女の首からなにかぶら下がっているのが目に付いた。黒いひもが胸のあたりまであり、その先には丸い透明色の石あった。ぼろぼろの服の中で妙にそれだけが浮いて、輝いていた。だが…… そこで俺はやっと彼女の顔を見てみることにした。ぱっちりとした黄色がかった瞳がじっと俺を見ている。何度も確かめるように長いまつ毛が瞬きを繰り返していて、いまだ信じられないというように目をくりくりと動かしていた。走ってきたからか、息の上がった彼女の頬は少し赤くほてっていた。……まだ幼いが顔は中の上ってところか。首の飾りがよく似合っている。 「やっぱり帰ってきてくれたんだ! あるじ様が環をすてるはずないもんっ。うれしい、うれしい。あるじ様ぁ」 抱きつきながら繰り返しあるじ様あるじ様と言われて、少々俺はなんだかうんざりしてきた。結構時間がたっていると言うのにいっこうに、人違いということに気づきもしない。 「……とりあえず落ち着け」 もう一度女を引っぱがして自分の体からどけると、きょとんとする彼女に言った。 「うん、あるじ様!」 「…………」 ……おい 「ん?」 「……」 急に彼女は顔を近づけて来た。至近距離でじっとのぞき込むように見てくるものだから、俺は顔を引きつらせて一歩下がった。 ふいになんの節もなくすっと女は立ち上がった。 「今度はなんだ?」 「あるじ様じゃなかった、ごめんなさい」 そう言うと彼女は興味をなくしたようだった。彼女の瞳は愕然とした失望の色を宿し、表情は無表情になった。なんなんだ、いったい。 「……おい、こら」 謝ったはいいがそのまま女は歩き出そうとした。散々人違いをして騒いだくせに、妙にあっさりとことを済まされたようで癇に障る。 「待て!」 思わずそう言うと案外またもやあっさりと彼女は立ち止まった。思ってもみなかった彼女の行動に少し戸惑いを覚える。だが、次の瞬間俺は更に拍子抜けることになった。 「あるじ様ぁ……」 ぼんっ 『ふぇーんふぇーんっ。あるじ様ぁあ!』 変な音と妙な煙とともに目の前には女の姿はなく、いたのはクークー泣いているメス狸だけだった。 |