月の中のうさぎ


 [3]


        * * *

「えー?! あの桜羽姫の精霊〜?」
「そうだ」
 少女の驚く声にオウヒメは答えた。
場所を変え、現在彼らは公園にいた。とりあえず、立ち話もなんだからとたんころうが提案したのだ。公園内のベンチで座っているのは少女だけだ。たんころうはというと、象さんのオブジェに座り、オウヒメはというとベンチのすぐ真横にある木にもたれかかっていた。
「へ〜。あの桜羽姫がこのマッチョな男の子なんて……うーんでも、あんたならっぽいかも。それにしても女か男か聞かれたら絶対女だと思ったのに」
『桜と言うものに対するイメージだな』
 桜というと、やはり女性を思い浮かべてしまうものだろう。あごに手をそえながらたんころうは少しひげをかいた。
「うん。でも、やっぱりあのすんごい枝ぶり見てたら、マッチョは必須だね。だからある意味マッチョな女の子じゃなくてよかったかも、うん」
「……」
 マッチョの連発に諦めたような笑みを浮かべるたんころう。いい加減マッチョの話題から離れようやと思う彼であった。
「ってことで、ヒメちゃんはいつもほんとはずっとあの桜のとこにいたんだねー」
『ひ、ヒメちゃん?!』
 躊躇いもなく、何気なく言われた名にたんころうは再びひどく反応した。今度はあごが外れんばかりに、まるでかの有名な画家の『叫び』という作品に出てきそうなくらいだ。
「……我をヒメと呼ぶな」
 溜め息をつきながらオウヒメは頭に手を当てた。その表情は以前にも誰かに言われたような感じをただよわせていた。
「え〜? でも桜羽『姫』じゃん?」
 そんなオウヒメに笑顔で聞き返す少女。再びオウヒメは深い溜め息をつくと、説明するのがめんどくさそうに顔をゆがめた。しかし、誤解をされるのは更に面倒だからと思ったのかだるそうに話し出した。
「そうだ、オウヒメが我が名だ。でも、漢字が違う」
『そうだ、この今の『桜羽姫』という名は人が勝手にオウヒメ様の名の響きからもじったものなのだよ』
 たんころうはオウヒメの言葉を継いで言った。
「へー? んじゃあ本当はどんな漢字なの?」
「……」
 そんな彼女の言葉にしばし沈黙が流れた。そして次にはじめに口を開いたのはたんころうであった。
『お前オウヒメ様に対してもう少し、敬意を払ったらどうかのー。そういうことは気軽に聞くものではないぞ?』
 深いため息をつきながら言うたんころうに、少女は不思議そうに首をひねった。オウヒメはそんなに偉い人なのだろうか。様付けするくらいだし。などと考えていると、本日何度目かの溜め息をついたオウヒメが少女に向かって言った。
「お前、名を先に名乗れ」
「私の名前? ああ、そっか言ってなかったっけ。宇崎李都子(いつこ)。字は……」
 合点が着いたようにそう言うと少女――李都子はそばにあった適当な枝で地面に自分の名前を書いた。ガリガリという音ともに凹凸のある地面にはちょっと歪んだ文字が並んだ。
「はい、あなたは?」
「オウヒメ。字は――」
 とたん、彼の目の色が一瞬金色に変わったかに見えた。その瞬間、風がざぁっと吹いた。
「――こうだ」
 さらりと乱れた髪をかきあげると、どうでもよさ気にオウヒメは服についた枯れ葉をはらった。
「え?」
 はっとして李都子は地面を見ると、なにかが書かれていた。そこには『壮佑比命』という字が並んでいた。とても、枝で書かれているような歪んだ字体ではない綺麗な字体で。
「こ、これでオウヒメ?」
 李都子は突然現れた地面の文字を指差しながら、必死でつっこむまいと笑顔で言った。オウヒメを見ると、彼の瞳は何の痕跡もなく、紫色のままであった。
「そうだ。これが我の本来の名。ま、覚えなくてもいいが」
「……ふーん。なんか神様みたいだね、ほら、日本神話に出てくるやつらとか」
『や、やつらって……こ、小娘そそれはよ、よくないぞ?』
「いいじゃん? あ、そう言えばもっさんどっか出かける予定だったんでしょ? 行かなくてもいーの?」
『おぬしが止めたんじゃないか』
「あはは、じゃぁ行ってらっしゃーい。またねー、もっさん」
― って言うか、俺の呼び名もっさんで定着してるっ…… ―
 ベンチから立ち上がって笑顔で手を振る李都子にほろりと涙を流しながら、心の中で叫ぶたんころうであった。
 しょんぼりといった感じで去っていく彼を見送っていると、ふいに思い出したように李都子は隣のオウヒメを見た。
「そ、言えばヒメちゃんは散歩中なんだっけ?」
「……ああ。ついでに今日は夜行日だからな……そして我をヒメと呼ぶな」
 さらりと言うとオウヒメは後半の言葉に力をこめて李都子を一瞥した。
「ヤギョウ日?」
 聞きなれない言葉に彼女は首をかしげた。なにか特別な日らしいが、今日ってなんかの休日だったっけ? 色々と考えてみたが、やはり李都子の頭からはどう考えても知らない単語であった。
 そんな彼女を横から見ると、オウヒメはまゆを吊り上げた。
「知らないのか? 今日は乙未。神無月は未の日が夜行日だ」
― ……いや、ヒメちゃん。ワタクシそもそも『ヤギョウビ』なるものが知らないわけで…… ―
 おそらく丁寧に教えてくれたつもりなのだろうが、李都子にはさっぱりだった。しかも『夜行日』自体を知らないとはまったく思っていないオウヒメ。雰囲気からして彼の中では常識らしい。
 むしろ、神無月って……十月を和名で言うあなたは何者ですか? と別の謎も深まる彼女であった。
「あたりに妙なやつがうろついていたら処分してくれと頼まれた」
「……あれ? ヒメちゃん物騒なこと言ってない?」
 さらに平然ととんでもないことを言う彼にちょっとひやっとしながらぎこちなく見ると、しばし考えた後オウヒメは言葉を訂正した。
「間違えた。軽く行動に気をつけるよう圧力をかけろと言われたんだったな」
「どっちもあんま変わりませんよ、お兄さん」
 李都子は聞こえるか聞こえないかくらい小さな声でぼそりとつぶやいた。まだ、『処分』は冗談にも聞こえたが、それよりもむしろ後半のほうが現実味があって空恐ろしい感じがする。
 彼を怒らせないほうがいいのか、それともただ単にボケているだけなのかと考えながら、彼の呼び名を変えたほうがいいか少し真剣に考え始めた彼女であった。
 そのそばでオウヒメは李都子をじっと見ていた。見られている当の本人はというと、その視線にはまったく気づいてない。まだふつふつとなにか考えているようだ。
「……すまないが、ちょっと用事ができた」
「え〜急に?」
 背を木から離すと突然言ったオウヒメの言葉に、李都子はなんだかがっかりした表情を浮かべた。
「ああ」
 そんな彼女にかまわず同じ態度のままオウヒメは歩いていった。
 そこで李都子は自分の言っていることのおかしさに気づいた。もともと一人でいた上、知り合いでもない者と話していたのだからそう思うほうがおかしいはずだろう。だが、多少仲良くなったためかそういう気持ちにさせたのかもしれない。
「そっか」
 そんな気持ちをかき消すように端的に答えると、彼女は笑った。
「お前はどうするつもりだ」
 ふいに立ち止まってふり返ると、オウヒメは思い出したように李都子に質問した。
「え? 私? んー……もうちっとそこらへんをぶらぶらするつもり?」
 特に考えてなかったため適当に答えることになった。どうせここで別れるのだし、会ったばっかりの彼女にとくになにも言うこともないだろうと李都子は思ったのである。しかし、そのまま流されると思っていた言動にオウヒメはきつい目を向けた。
「――帰れ」
「なんで?」
「帰れ。もう、暗い」
 そう言われて初めて、李都子は辺りを見回した。
 彼の言うとおり、あたりはすっかり影をさし、空が夕焼けから夜の色に変わりつつあった。それとともに昼間より少し冷たい風がどこからともなく吹いてきて、闇夜が来ていることを告げていた。
「あ、心配してくれてるんだぁ結構ヒメちゃんって優しー」
 無表情でムッツリしていたため、少し意外な感じがして軽い気持ちで李都子が笑っていると、さらにオウヒメは顔をしかめた。
「冗談を言ってるんじゃない。今日は夜行日だと言っただろう」
「だからその『ヤギョウビ』っつーのはなんなのよ」
「一言で言うとやつらの活動日だ」
 ちっと舌打ちをすると、口早に彼は答えた。
「ああもう、なんなのその『やつら』って」
「妖怪、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、悪鬼……そのような類の者どもだ」
「妖怪? そんなんいるわけ……」
 そう言ってふいに彼女は言葉をさえぎった。彼女の目に何か不自然なものが映ったからだ。
 李都子は公園の砂場にいる物陰を注視した。それは小さな妙な物だった。いや、本当は良く見慣れた、砂場の遊び道具の小さなバケツとスコップ。よく子どもが遊んで持って帰るのを忘れる、あのプラスチックの道具だ。
 しかし何が妙なのかというと、誰も触ってないはずなのに動いているのだ(・・・・・・・)。明らかに手足が生えていて、なにやら高い声がしている。
 すると、今度は李都子のいる5メートルほど離れた歩道にものすごく太った相撲力士ほどの人が歩いているのが見えた。しかし、こちらもよく見ると人ではなかった。目は線のように細く、のそぉのそぉと歩く姿には指がなく、まるで肉人間みたいな人形みたいな……とにかく人とは形の異なる者であった。しかもなにやら「どうでらぇー……」と一進みするたびに発する声は不思議な響きを持っていた。
 そう、彼女達の周りには妖怪が出てき始めていたのだ。
 しかもよくよく見てみると、あたりにはそういった者たちがぽつぽつといた。今まで気がつかなかったことがおかしいくらいに。
「……つーか何気にもっさん、妖怪って言ってたっけ?」
 すっげぇとつぶやきながらどこかへ向かう相撲みたいな妖怪を見ると、李都子は煙みたいな妖怪とすれ違った。
「でもさ、妖怪って人にそんなに危害加えないっぽくない? あっても悪戯程度って感じ?」
 ジャングルジムのあたりで体の透けた子ども達と、そのそばで子守をするように漂う真ん丸いおたまじゃくしみたいなものを彼女は見た。おたまじゃくしみたいな妖怪は穏やかに子どもたちを見守り、とても和やかな光景であった。
「本気で言っているのだが聞こえてないのか?」
 冷たい声が後ろから聞こえて振り返ると、李都子の方をオウヒメが目を吊り上げて見下ろしていた。
「去れ、特に今月は彼らの歯止めが緩い」
 そう言うと彼はきびすを返して公園の出口へ向かった。
「でも……」
「――もっとも彼らの餌食になりたいのなら別だが?」
 そう言うと振り返ってオウヒメは凍てつくような瞳を李都子に向けた。そんな彼の瞳は本来の紫ではなく、見る者に畏怖を与えるような金。
ゾクッ
 李都子は絶句した。
 その姿になんとも言えない、恐れに近いものを感じたのだ。暗くなったせいもあるのだろうが、妙に彼の気配が只ならぬ雰囲気を発していた。そして彼女は今になって初めて、彼もまた人でないことを思い出した。
 そんな彼女に今度こそ、オウヒメはその場から離れ、固まる李都子に見向きもせず公園から姿を消した。
 冷たい風が吹き、李都子の体をなでた。
 公園には誰かはいるのに人はいない。本来なら彼女の知る見慣れた場所が別世界になっていた。
「……なんなのよ、いったい」>
 腕をぎゅっとつかみながら李都子は絞り出すように声を出した。だが、その問いに答えてくれるものはいない。
「帰れなんて……」
 そう言うと李都子はどんっと近くの木をなぐった。しかし、そんな行為も虚しく、彼女は自分が叩いた手を見た。

― そんな場所今の私には、ない ―

 誰も彼女のそばに話しかけてくる者はいない。人が目の前の道路を足早に去っていく。
 ただ、そんな彼女を静かに青白く光る月が照らしていた。








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