[郷に来たらば郷に従え]
[1]

「ご無沙汰しております。はじめまして、飾臣翠しきおみすい様でございますね」
「……」
 チャイムが鳴り母にインターフォンではなく玄関を開けるように言われて行ってみれば、黒いスーに実を包んだ40代くらいの男がにこやかに笑みを浮かべていた。それは上品に、しかも爽やかな毒気のない笑顔をされ私は少し癒されてしまった。いや、つい先程あの父の笑みを見てしまったからつい。
 どこのどなただろうか、私はこんな知り合いはいない。しかし、私を見て名前を言い当てられた彼は間違いなくこの家の誰かの知り合いらしい。母に玄関へ出ろといわれたし。
 しかし、彼は私を見て母や父のことを聞くわけではなくまっすぐ私を見て言ったのだ。私に用があるとでも言うように。
 なんだか嫌な予感がするその事実を無視しながら、私は彼に笑顔を返した。
「はい。飾臣翠は私ですが母か父のお知り合いですよね? どうぞ、中へ」
「いえいえ、すぐにまたお暇させて頂く事になりますのでお気遣いなく……」
「そうですか? では今親を呼んできますね」
 その言葉のどこかがおかしかったのか、彼は苦笑すると首を振った。
「いえ、貴女様を先に私の元へ遣われたならば、まず貴女様に挨拶をということでしょう」
「え?」
 彼の言葉に私はしばし固まった。
 母にどういう意図があったのかは知らない。けど嫌な予感がする。しかも「貴女様」。私は大河ドラマの登場人物になったのか。いやいや、そんな丁寧に言われる存在ではないはず。
 意味がわからず男を見ると、彼はにこりと笑った。
「紫様と景介様からお聞きしていると存じ上げますが、私の名前はタカミツと申します。お迎えに上がりました、翠様」
 そう言うと私に名刺を渡し、タカミツさんは恭しく頭を垂れた。まるでお偉い様方に挨拶するかのように。
「………」
 名刺を反射的に受け取ったまま硬直していると、私は段々つい3時間前に話されたことを思い出した。母は確かに言っていた。『どこか』から『迎えの者がやってくる』と。

 え、本当にお迎えが来ましたよ?
 というかこの人にとって私は何者だ?
 いや、というか私の親が何者だ?

 目眩がしてきて私はおでこに手を当てた。
 これは現実か、いや現実のはずだ。というか私がこんなにも動揺するようなできごとが起きるのは珍しいな。父の教育により何が起こっていても冷静でいられるような性格になってしまったはずなのに。ああ、じゃあ実はお誕生日のびっくり企画とかだったり? いや、落ち着こう。うん、落ち着こう。まず私よ、落ち着け。
 表面上だけは冷静でいるので精一杯の私の後ろで誰かがやってくる気配がした。
「やあ、タカミツ。久しぶりだな」
 やってきたのはどうやら父のようだ。後ろを振り返ってみるとやはりお父さんがやってきた……こちらに嬉しそうな笑顔を向けて。その笑みで戻りかけてた冷静さが再び崩れてしまった。
 怖い、お父さん、何を喜んでいる? 何に喜んでいるんだ? 慌てふためく私にか?
「景介様、ご無沙汰しておりました。お元気そうな顔を拝見でき、嬉しく存じます」
 そんな私のそばでお父さんを見るとタカミツさんは途端、嬉しそうに話しだした。どうやら本当にお父さんはタカミツさんと知り合いらしい。というかタカミツさん、父に話せて本当に嬉しそうにされている。
 タカミツさんのお陰で少し冷静に戻った私はとりあえず、黙って彼らの会話を聞くことにした。
「お前も元気そうでなによりだ。今回もまた迷惑をかけるな」
「とんでもございません! この様な大役を賜り、光栄にございます」
「そうか。そう言ってくれると俺も嬉しい。じゃあ、翠を頼むよ」
「はい、翠様は責任もって私めがあちらへお送り致します」
 そう言うとタカミツさんはお父さんにお辞儀をした。
 そしてそばで話を聞いていた私はあきれて声も出ず、ただ傍観していた。まるでお父さんがお頭でタカミツさんが従者みたいに見える始末だ。いや、あながち間違いではないのではないか。そんな予感がふっとよぎった。しかしそれではあまりにタカミツさんが可哀想だ。父の従者になるなぞ想像するだけでも、とんでもない。
「それでは翠様、参りましょう」
 突然蚊帳の外だった私に話が戻ってきてはっとした。そう言えば彼は私を迎えに来たのだった。そう、確か『鬼界』という場所に行くのだ。そう……『鬼界』……に。
 わけのわからないものに引き込まれたような、なんとも言えないもやもやしたものが頭の中でうずまいた。しかしなんとか追い払うとすまなさそうにタカミツさんに笑顔を向けた。
「すみません、実は私、準備ができていなんです。つい数時間前に話を聞いたものですから」
 私は言った。
 そう、『鬼界』に行くにしても色々と準備がいるはず。すぐに行けるわけがない。タカミツさんには申し訳ないが少なくてもこれで3日くらいは猶予をもらえるはず。その間に父に問いただせばいいのだ。でないとこの事態の収拾が私の中でつかない。
 そう思っているとぽんっと頭に誰かの手を乗っけられた。
「その事なら心配ない。向こうでいるものはすべてそろえている。心置きなく行きなさい」
 心配するなと極上の笑顔で父がそう言った。
え?
 そんな父に私は青ざめた。
 傍から見ればなんてよい父親に見えただろう。しかし実は違う。友達も誤解をしている子が多いが違うのだ。父は悪巧みが成功した時や誰かを陥れた時、誰かが慌てふためいて困った時、何かを企んでいる時にしか笑顔にならない。逆を言えば、父が笑顔の時は危ない。爽やかな笑みは更に危険。そういう時はもうすでに罠は仕掛けられたということなのだ。そう、私の父は世に言ういじめっ子、サドだ。
 そして今、父はそれはそれは男さえ悩殺してしまいそうなほどとろけるような笑みを浮かべている。
 幼少の時から鍛えられた勘はこの上なくこれからの危険を予期していた。
 あの父が笑顔なことやその上頭を撫でられているという事態にすでに崩壊しかけの私の自我は、なんとか『諦める』という究極の技で食い止めた。やはり長年鍛えられただけある、うん。まだ私は大丈夫だ。
 というかすでに生活用品はなにもかも『あちら』にそろっているらしい。

……そんなに準備してあるならもっと前に私に言ってほしい
ていうか始めから私には選択権は皆無か……

 今度こそは冷静を取り戻した私は、盛大な溜め息をつくとお父さん(まだ笑顔)から毒気のないタカミツさんへ視線を戻した。
 そこには本当に心配そうにこちらを伺う彼の顔。見るからに青ざめた私を気にかけてくださったんだろう。
 ……そんな彼に少しばかり癒された気がした。





                              




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