爽やかな朝。
穏やかな空気。
いつもどおり気持ちよく牛乳を飲んでいた。
そんな18歳になった朝の第一声がそれだった。
「……………お母さん、文法間違ってるよ?」
笑顔で言うとお母さんははっと自分の失敗に気づいたのか、もう一度自分の言ったことを確認してからきっぱりと次の言葉を言った。
「いや、キセキだって」
いや、そう言われても……
「むしろ日本語になってない」
「
溜め息をついてつぶやく私に焦ったように言う母。お母さん、たまにおかしな物言いをするからなぁ……。
「『キセキに入った』? あ、もしかして簿記の試験に受かったこと? それが奇跡ってこと?」
ぶつぶつと暗号を解くかのように母のセリフの意味を考えていると、目の前からなんだか不穏な空気が流れてきた。
顔をそちらに向けると、笑顔で母が両肘をテーブルにのせて頬杖を着いていた。ちなみによく見ると額に血管を浮かばせた。
「…だから話聞けや?」
「お母さん」
私は再び溜め息をついた。彼女はむかつくことがあると口が悪くなるのだ。どちらかというと可愛い部類に入る母の顔には、出てきそうにもないほど柄が悪くなる。そんな彼女の口使いを元に戻すには取って置きの方法がある。
「ああ?」
かなり柄悪いなぁと思いながら私は次の言葉を言い放った。
「汚い言葉は余計馬鹿に見えるから身のためやめた方がいい…」
瞬間、ショックを受けるお母さん。涙がちょちょぎれそうな感じだ。私だけはそんなこと言わないと信じてたのに、というような顔をしている。実際、そう思ってるんだろう。だっていつも兄さんやお父さんにからかわれてて最後には私になだめられてたってシチュエーションだったから。やもや私が言う側になるって思ってなかったんじゃないかな。
「…………………………翠にまで言われた〜っ」
「……とお父さんが言ってた」
すぐに付け足しそういうと私はコーヒーをすすった。ちゃんと私がそう思ったんじゃないのだと言っとかないと、母がすねる。この対処法は実際、父から教わったものだし嘘ではない。ちょっと打算的な気もするけど、これしか対処法ない。
「………
お母さんはうらめしそうな目つきでくるりと後ろを向いた。
そこには30代にしかどうしても見えない、目つきが意地悪そうな男がリビングの扉あたりでお母さんを見て爽やかに笑っていた。その隣には20代後半の青年がいつもの茶番に慣れを通り越し、飽きたという風にあくびをしていた。この二人がお父さんと兄さんだ。
絶対おかしい、50歳にはなっているはずなのに30代にしか見えない。でもそれが私の父。もしかしたら20代にも見えなくはないかもしれない父に、私はもはや見慣れてしまったけど、友達に言われるたび突っ込みたくない心に葛藤していた。
そんな父が母の所に来るとにこりと笑った。
「
「そう、一般世間の常識からして今のでは『奇跡』にしか聞こえないね、母さん」
さっそく二人に言われるお母さん。相変わらず言葉責めに会ってる。彼らの言葉に母は少しひるんだ。自分が説明べたと言うことを本人は気にしてるからだ。
「…
「うん、何?」
私は素直にお母さんに向き直ると、母は私の横のイスにこしかけた。
「……」
でもしばらく黙ったままじーっとこちらを見てるだけで、お母さんはいっこうに話さなかった。なんだか話すのを渋っているようだ。なにかあまり話したくないものらしい。でも話さないといけないものなのか、しかも今。不思議に思いながら私は首をかしげた。
「どうしたの」
「…悪気はないけど、今年の誕生日は場合によってはおめでとうとはびみょーに言えないかもしれないけど、一応お誕生日おめでとう、翠」
一応忘れてはいなかったんだ、誕生日。今朝初めてのお誕生日おめでとう似少々微妙な気分になった。ということは『びみょーにおめでとうとは言えない』話の内容をするってことなのかな。
「ども」
「さて、本題に移るわね。まず、私達一族は18歳になるとキセキというのに入るの。字は…」
一族なんて大層なものの話ですか? なんなんだと思いながら母を見ると、紙とペンをとりだしてお母さんはなにかを書いていた。
ちょっと覗き込んでみると、次の言葉が並んでいた。
『鬼籍』
…………おい
「こう書くの」
「……お母さん、ボケてる?」
「大丈夫、まだ若いわ。死んだら入るやつと同じだけど漢字はこれで合ってるの」
自信満々で胸を張る母。いや、誕生日に鬼籍とはなかなか面白い文字を見せてくれる。うろんな目を向けるとわかるわかると言う様に頭をなでてきた。
お母さん、私の反応見て何納得してるんだろう。
「ただし、意味は違うのよ」
「……この字に他に意味があるの?」
つい疑うように聞いてしまったが、それも無理もないという風にお母さんは説明しだした。
「この『鬼籍』って言うのは別世界での新たな誕生を意味する。つまり、あなたは今日、別世界で存在するようになるの」
「………」
なんですか、それ
「ちなみに私達はこの別世界を『
「………」
『鬼界』? 死後の世界ですかそれ?
「もうじき、あちらからお迎えがくるわ。だから覚悟なさい。私も18の時あちらでろくなことがなかったから」
「……」
…………死後の世界に18歳のとき行ったの? お母さん
あれ? お母さん生きてるよね?
もしや……ゾンビ?
だんだん混乱してきた。ダメだ、死後の世界から抜けられない。もうこうなったら『死後の世界』じゃなくて『意味不明な所』に変換してみよう。
私は頭をかかえて必死で情報を整理した。
「………つまり、私は今日から新規住民として意味不明な所へ行かされるということ?」
そこまで言って私は再び頭を抱えた。なんだか私こそ何言ってるんだろう。なに、新規住民って。
母の支離滅裂な話し方がうつってしまったようで、少なからず落ち込んでしまった。普段ならこんなことならないのに、真剣に言うお母さんの話を聞いて動揺してしまっていた。ほんと、自分では冷静で物事にあまり動じない性格だと思ってたんだけど。
「正しく言うと新規誕生住民だけどな」
そばで聞いていた兄さんが横に座りながら言った。……って合ってるんだ、この表現。信じられない、兄さんの口からそんな言葉が出てくるなんて。
兄さんをまじまじと見ると、冗談を行っているような顔ではないみたいだった。
「…兄さんまで言うなんて、本当の話なのね、さっきの」
「まぁな」
あらかさまに嫌そうなうんざりした顔で言う兄さん。
お母さんの話はいまだに信じられないけど、嘘ではないらしい。この事実が驚きを通り越して変な具合に不安感がつのった。それになんだろう、兄のこの表情に妙な危機感を感じた。これからなにか、大変なことが起こるような……
私はそんな思いを振り払うように再び牛乳を飲んだ。
「俺はいいけどお前らは向こうじゃ大変だな。」
するとお父さんが横で意味あり気な言葉を言う。どうやら兄さんは私がこれから行くであろう場所に行ったことがあるようだ。だが、やはり兄さんは乗り気じゃないどころかさらに嫌そうな顔をしていた。なにか、嫌なことでもあったんだろうか。
……って。
私はばっとふり返るとお父さんと視線が合った。そして彼は……なんとも楽しげで爽やかな笑顔を浮かべていた。父が……あの父が爽やかに笑ってるっ!?
不安げに兄を見ると、哀れみと諦めを含んだまなざしを彼は向けてきた。
「慣れるもんじゃねぇかもしれんが…ようは開き直りだ、わかったな」
そんな兄の様子に私はなんだかとてつもなく嫌な予感がした。しかも追い討ちに更なるお父さんの笑顔だ。この表情は……恐ろしい。なにかとてつもない災難が起こる前兆だから。
寒気が襲い、私は腕をさすりながらちらりとそれまで黙っていた母の方を見た。そこで私は再び兄と同じ種類のまなざしにぶつかった。
いったいなにがおこるだろう?
いまだに状況がうまくつかめないまま、一抹の恐怖を覚える私だった。
そしてそれは後に的中していたと知ることとなる。
私の鬼が島滞在記 プロローグ 了