[郷に来たらば郷に従え]
[4]


 しかし、突然呟きだした隆充さんに言葉を遮られてしまった。
「な、なにかお気に召されないことを致してしまったのでございましょうか? もしや知らぬ間に大変失礼なことを申してしまったのではっ。いいや、そうに違いないっ。翠様にしたら初対面だと言うのに初日からこんな、こんな。私はなんてことを! なんと…なんという失態!」
 ガタガタと青ざめながら震える隆充さん。文字通り、ガタガタだ。そして本当に顔が青い。いや、もう土気色に近くなっているのは気のせいか? 唇にいたっては紫がかっているのは気のせいか?
 どうやら隆充さんは私が彼のことを嫌いになったから『様』付けをしてほしくないと思われた模様。いや、この理論もなにやらおかしい気がするけど、とりあえず隆充さんは勘違いをしているらしいことはわかった。そしてそれがとてつもなく彼を追い詰めているような気がした。
 このままでは……切腹とか、しませんよね。なんて馬鹿げたことを私は考えてしまった。うん、それはないでしょう、いくらなんでも。
 そう思いながら私は笑顔で隆充さんを見ると……自分の表情が固まるのを感じた。彼の目は病み始めていた。……笑えない。
 私はそのまま地に沈んでしまいそうな彼に急いで落ち着いて言った。
「すみません、なにやら誤解を招くような言い方をして申し訳ありません。様付けで呼ばれるのに慣れていないので止めて頂けないかとお尋ねしたのです。すみません、本当に言葉足らずで申し訳ありません。隆充さんはなにも悪くありません」
「え、そ、その」
 恐る恐ると言う風にこちらを向く隆充さん。冷や汗までかいていらっしゃった。
「それでは私がなにか粗相をしたからというわけでは……」
「ありません」
 私の言葉を聞いた途端、ムンクの顔は元の隆充さんの顔に戻った。
「……左様でございましたか」  ほっと溜め息をつく隆充さん。その顔は死刑を宣告された顔から実は無罪でしたと言われたような表情の変化だった。大げさな表現かもしれないが、彼の表情はまさにそのような感じだった。私も彼が元の落ち着きを戻してほっと息をついた。
 しかし、もしかしたら本当に私の一言で……場合によれば彼は自害しかねないのではないだろうか。そんな考えがふと過ぎった。……いや、ありえそうで怖い。
 今度から前置きをちゃんと入れてから話すことにしよう、と私は決心したのだった。しかし、妙な疲れをどっと感じてしまった。だが――
「しかし、恐れ入りますがそれはできかねます」
 やけにきっぱりと言う隆充さんの声。見ると苦笑する彼の目にはそのゆるぎない意思が宿っていた。それを不思議に感じた。
「なぜ、ですか?」
「貴女は……景介様の御息女でございますから」
 申し訳なさそうに隆充さんは言った。
 そんなにお父さんは隆充さんにとってえらい人なのか?
 というより、彼にとって逆らうことが許しがたいほど恐ろしい人なのかもしれない。
 ……どちらにしても
「……父になにか言われたのですか」
「いえ、そんなことはございません」
 またもやきっぱりと言う隆充さん。しかし、私には『父』と言った時彼が示した微かな反応に気がついた。もしかしたら私も注意してなければわからなかったかもしれない。けれど私は確かに隆充さんの反応に気づき、父がなにかしら関係していることはわかった。
 私は溜め息をついた。本日何度目の溜め息だろう。数えたくもないけど。
 お父さんはよく、他の人に私のことで恐喝まがいの注文をする。うちの娘に〜するな、なにかしたら――――と言う風に。それを父は私の目の届かないであろう所でした。しかし、本人は気づいてないと思っているのかもしれないが、私は知っている。小さい頃、物心つく頃からすでに父は私の周辺にいるあらゆる男に釘を打っていた。必要であれば年齢を問わず、女性にもだ。
 それは人によったらいわゆる親バカなんだなぁ…と微笑ましく眺めていられるかもしれない。実質、父は家族――特に自分の子と妻に対してものすごく愛情が深い。……ただ、それは偏屈なというか、歪んだ愛情の形なのだ。
 自分は苛めていいけど、他の者に苛められるのは気に食わない。それが父の愛情。
 それは当事者、もしくは父の本性を知っている者しかわからない。そして私からしてみれば、迷惑だ。迷惑極まりない。
 考えてもみて。私の姿を見ただけで恐ろしいものを見たかのように青ざめながら「すみませんすみませんすみませんすみません!!」と連発して走り去っていく人を。
 ……なんだか相手が可哀想になってくる。
 おかげで学校では妙に私のことを腫れ物でもあつかうように接する人がちらほら……。そんな時どんな脅し方をしたのかと、空ろに考えてしまう。そしてさりげなく私はその人達に謝るのだけど、それももう小学校低学年の頃に諦めた。余計怯えさせることになったから。
 私は溜め息をついた。
「なにを言われたんですか?」
 隆充さんの目を真っ直ぐ見ると、私は言った。それを困ったように笑う隆充さん。おそらく彼は私が父の指示で『様』付けを止めることができないのだと気づいていることを悟ったんだろう。
「申し訳ございません。これ以上言うと景介様にお咎めを受けます」

ああ…
 ここにも被害者が

 あまりにも困った顔で、それでもこちらに気を配り笑顔を忘れない隆充さんを私は不憫に思えてきた。おそらくなにか弱味を握られてるんだろう。お気の毒に……。今度お父さんに言おう……隆充さんをいじめるなと。父がはたしてそれで止めてくれるかはわからないけど。私ができることと言ったらそれくらいだ。後は父次第。私は父を止められない。
「……ご迷惑おかけします」
 これからのことを考えると私は再び頭が痛くなってきた。
 ここまで私のことを考えてくださってとても感謝しています。

* * *

 ふと私は外を見た。
 景色には今までいた町はなく、どこかの田舎の道を走っていた。民家は少なく、かわりに田んぼや畑が多い。私の家の周りでは多少田んぼや畑があったけど、こんなにも民家がまばらで大地に敷き物でも敷いているかのような広い田んぼは見たことがなかった。何より、緑が豊かでちょうど舗装された山道に車は入っていった。
 いったいどこへ行くのだろう。もしかして山が『鬼界』なのだろうか。そんなことを思いながら私は外を眺めた。時間は昼近く、日差しが心地よい。それに太陽の光が道路の横に生えた木や緑に当たってにちらちらと光っていた。それが神秘的とまではいかないけどとても綺麗で、少し見惚れてしまった。
  私達が走っているのは山道と言っても、道路の少し段差の下にはまだぽつぽつと畑と民家があった。そんなに山の中には入っていない。でもそんな光景がなんだか少し和み、それと同時に本当に自分は家から離れてしまったのだなぁと実感させられた。
 すると車が緩やかな山道を走る中、何回か石のトンネルを抜けた。トンネルはそんなに長くなくて、上には鮮やかな緑がかぶさっていた。そこでふいに再び何回目かのトンネルに入りかけた時、私はその入り口になにか赤い印がついていた気がした。とは言っても花と見間違えたのかもしれないけど。
 そう思いながら再び車内に視線を戻そうとすると、今度のトンネルは少し長いようだった。見た目は先程何回か通った短いトンネルと同じくらいだった気がするのに。
 なぜだか妙に気になりながらトンネルを抜けるまで窓の外を眺めていた。
 そしてトンネルを抜けた時、そこは少し緑の空けた地面が広がっていた。どうやらここが本格的な山の入り口らしかった。砂利の見える小道が森へとつながっていた。今度は周りには民家なんてない。
 すると、車が停車した。
「お待たせ致しました。鬼界への入口に到着いたしました」
 不意に隆充さんの声がして振り返ると、彼は微笑んでいた。
 やはり、山が『鬼界』とやらなのか。山姥とかいたりして。
 諦めの冷めた心境でそう思っているとドアがすっと開いた。どうやら運転手の人が開けてくださったようだ。隆充さんよりドアが近かったので、先に外に出た。再び運転手さんにお礼を言いながら。
 すると、温かい日差し爽やかで涼しいけど、寒気がするほどではない清浄な空気が私を包んだ。耳に鳥のさえずりと木々のさわめきが聞こえる。鼻からみずみずしい空気が肺へ送られる。
 気持ちいい、山へ来たのは中学の時の臨海学校かな。懐かしい……。
 和やかな緑と日差しにほっと気を和らげていたが、後ろから隆充さんが降りてくる気配がして私ははっと我に返った。そういえばさっき、隆充さんはここを『鬼界』の入り口と言った。
「……ここが入り口ですか」
 私は小道の向こうを見た。鬱蒼と茂る木々。きっと奥には見渡す限り緑で一杯なのだろう。
 ノーマルの世界からいざ未知の国への入り口が目前にある。そう思うと、なにやら脱力感だか倦怠感だか妙な哀しみが込み上げてきた。
「はい、あちらのキケツ門から鬼界に参ります」
 隆充さんが言う。って、『門』?
「え……『門』、ですか?」
 私はそれらしいものが見つけることができなくて隆充さんを見ると、彼はある方向を示した。
「あちらです」
 その方向をよく見ると、小道から少し――50メートルほど進んだ所で木々の間に開いた空間があり、正方形を描くように狛犬が四方に内側を向いていた。それを隆充さんは『門』と呼んだ。
「……ご覧になれました?」
「あの、あれは『門』、なのですか」
「一見そうみえませんが、左様でございます。ハユマ」
 柔らかく微笑みながらそう答えると隆充さんは運転手の人を見た。運転手さん、ハユマって名前なんだ。
 そう思っていると運転手――ハユマさんは、はい、と言うと私達をあの狛犬のところへ先導した。私は歩きながらこの時、一応山道に入るし正直スニーカーでよかったと思った。あまりおしゃれする気にもなれず、動きやすい深緑のカジャケットとその下になにかの紋章のようなプリントがされた白の長袖、青のジーンズを今着ている。本当にスカートなどはいて来なくて良かった。
 ところで車は置いといていいのだろうか、と思い後ろを見るとそこには――車は跡形もなかった。
 見る形もなく、何の痕跡もなく、そこには緑の空いた空間だけが存在していた。……一瞬でどこへいったんだ?
 なにやら心の奥から妙な感情がこみ上げてきた。つっこみたい、というあれだ。あの感情だ。しかし、私はあえてそれを無視することにした。………あまり深く考えないようにしよう、うん、なんだかそれが一番な気がするよ。
 そうこうしているうちに50メートルくらいなのでそう時間もかからず狛犬のところへついた。
 私はその自称『門』というものを見た。近くで見ると、四角を描く石版の角に狛犬は置かれていた。そしてその石版には落ち葉や草おろか苔さえも一切生えてなくて、中心から同心円を描く波紋のような彫りがほどこされていることに気づいた。更に四方に置かれた狛犬は膝くらいの高さで石の体に、目にはビー玉くらいの大きさの黒色の玉が入っている。その玉は光りの加減によって光沢が虹色に変わる玉だった。
「………」
 その石の光沢を見ながら私はふとお父さんを思い出した。この黒なのに妙にひねり気のある光の加減によって光沢の色が変わる石に、妙に性格がひねくれた父が連想されたからだ。ここにおいて父を思い出させるものがあるとは。
 微妙な心境になりながら顔をあげて前を見ると、ハユマさんと隆充さんは見計らったように目配せした。
「翠様、それでは今から門を開きます故、この中にお入り下さい」
 隆充さんの言葉に私は彼らとともに四角の中に入った。実際は石版の中心に乗ったのだけれど。
 ……どこの門をどう開くのだろう。そう思いながらまさか、急に門が出現するのだろうか?などと、この18年間信じていた現実や常識を無視して勝手に思い描いていると、ハユマさんがどこからか朱色と金のひもがついた矛を取り出した。そう、矛だ。
 ………考えたらお終いだ。ていうか、銃刀法違反? 一応矛って刀ですよね。いや、というかそもそもこの時代に矛を扱う人って神事以外にあるのだろうか。いやいやだから考えたらダメだ私。
 私は無表情で心の中で雪崩のように矛の出所に対する疑問を必死で踏み消した。もう、動じないと決めたではないか私。こんな些細なことで考え込んでしまったら後が持たないだろう。
 そう思いながら私ははたと、これは些細なことかと考え込んでしまいそうになった。ああ、なんでもいいからもうお用事をさっさと済ませて家に帰りたくなってきた。……いや、父がいるし、それも、微妙な心境だけど。
 するとハユマさんは胸の前に矛を寄せ、言葉を紡いだ。もう私は諦観を決め、ハユマさんの動向をただ見守ることにした。

『四方に遣う奉る者に申す。我は鬼族、三式の二の家、巴佑馬』

りーん…

 あたりが急に静まり、鈴のような音が響いた。決して大きい音ではないのに頭に響くような澄んだ音。それに矛には鈴なんてついてないのにどこかに転がっているのだろうか。  私はあたりを見渡した。しかし、特に景色に変わったところはない。
 再び顔を前に戻す。再びハユマさんの口が開く。

『我らの郷里への衢へと結ぶ門、須く解け』

りーんっ……
「――――っ!?」
 途端、澄んだ鈴の音が私の耳に入って視界が歪んだ気がした。いや、もしかすると、鈴の音ではなく、耳鳴りだったのかもしれない。急に頭痛がして私は言いようのない浮遊感を感じた。立ちくらみに似た、足元が崩れるような浮遊感。  倒れる。
 そう思って体を支えるように抱きしめ、足に力を入れながら私は目を閉じた。

* * *

 ……頭痛が……おさまった

 目を開けるとそこにはなにもなかった。
 なにもないとは言葉そのままの意味で、本当になにも見えないのだ。

 ただ、目に映るのは


 真っ白な世界。






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