Promise

〜一章・15〜






 私はなにもわからなかった。
 思い出すも何も、今のイナリとイノリの気持ちや考えていることさえも。


* 15 *


 繋がった手や抱きしめられた体からただ、痛みだけが伝わった気がした。私の知れない、深い闇がこちらを見ている気がして私は……声をあげた。
「ど、どうしたの? イノリとイナリ、なにかしちゃったの?」
 つとめて明るく言ったら、体が離されてイノリとイナリは黙っていた。下を向いた顔はどんな表情かわからない。ただ、二人には私が知らない秘密があるのかもしれない。そんなことを漠然と思っていた。
 私は自分の手を握りしめた。それを少し寂しいと、思わないように。
 いくら幼馴染でも、踏み込んじゃいけない領域はある。特にそれを私が踏み越えてはいけない。踏み込むことを許されていない、とぼんやりと感じていた。だから聞かない。嫌われるのが、怖いから。知らない彼らを、真正面から受け止め、今の関係が壊れるのがまだ、少し怖いから。
「あ、あのね……」
 私はとりあえず何か場を明るくするための話題を探しながら無意味にぱたぱたと手を振った。
 するとふと、視界のすみになにかが掠めた。
「あ……」
 私は頬をほころばせると立ち上がって駆け寄った。
「なっちゃん!」
 そこには銀色みたいな白の毛を持つ、赤ちゃん馬みたいな動物がいた。
「そういえばイノリがさっきなっちゃんに私を探させてたって言ってたっけ? ごめんね、ずっとほっといちゃって」
 私はなっちゃんを抱きしめると頬ずりをした。それに長いまつげをぱちぱちと瞬きながら眩しそうに目を細める。照れてるみたいですごく可愛い。
 なっちゃんの本名は那俊(なしゅん)。イノリの相棒でえいちゃんと同じく、一緒に式っていうお仕事をしているんだ。なっちゃんを一言で表すと、綺麗。太陽に当たって顔の後ろから背中にかけての毛が煌めいている。時々煌めくく毛に混じってある灰色の模様が鱗みたいにぴかぴかしてるんだ。まるで物語に出てくる白馬とかユニコーンみたいに綺麗。ただ、ポニーくらいの大きさだけど。頭に頬を擦る寄せると、なっちゃんも青灰色の目を細めながら私に擦り寄ってくれる。なっちゃんのおでこ付近にある少しのぼこっとしたしこりみたいのが当たってくすぐったい。
 そっか。
 私は先ほど感じていた気配を思い出した。
 見られていると感じたのは、なっちゃんに、だったんだ。どうりでイノリにしたら気配が人じゃないって思ったんだ。
 そんなことを考えていると、ふとそう言えばイノリもイナリも黙っていることに気づいた。
 毛並みに顔を埋めながら内心どうしようかとうなった。けれどこのままずっとこうしているわけにもいかない。……忘れてたけど今授業中で本来なら私は保健室にいるべきなんだし。イノリとイナリは私を心配してここに来ちゃったんだから、ちゃんと大丈夫だって言って授業に行かせないと。
 私は小さく息をついて決心すると、なっちゃんの毛なみから顔を上げた。
 その瞬間。

「……先に傷つけたのは僕たちだ」
「……二度と逃げはしない。今度こそ」

 かろうじて聞こえるほど小さく彼らがなにかを言うのが聞こえた。

 私はばっと二人を振り返った。目の前には真剣で強い意志を持つ澄んだ瞳。揺らぐことなく凪いだ、湖面のような黒。どこかでみたことある瞳。
 妙に胸の奥が軋んだ。なにかを、思い出しそうだった。思いだしそうで、苦しくて私は見慣れない彼らの既視感がする瞳に少しまた、無意識に後ずさりしかけた。
 コワイ。
 心の中の何かがざわついた。
 あれだけ真実を知ろうとついさっき決めたはずなのに、もう足がすくんでしまっている。
「イノ、リ、イナリっ」
 勇気を絞り出して言葉を出すと、はっとした顔で二人は私を見た。
「ごめんっ日和。なんでもない」
「ちょっと考え事してて……どうしたの?」
 取り繕うように、誤魔化すように笑みを浮かべる二人。いつもなら、もっとうまく誤魔化すイノリでさえ、私から見てもなにかがあるとわかるくらい隠しきれていない。
 でも。
 笑う彼らはどこか悲しそうで、私は息を飲んで黙ってしまった。胸が、締め付けられる。

 ああ、駄目だ。そんな目をしたイノリとイナリ、見たくない。

 私はうつむいた。なっちゃんの毛をぎゅっと弱く掴む。
 私は、ただ二人と笑っていたい。それだけなのにどうして私は真実を知ろうとするんだろう。
 二人を傷つけるかもしれないのに。
 そうまでして知る必要のある、真実なの?
 そんな言葉が頭の中でせめぎ合う。胸のあたりが気持ち悪くなる。
 日常が崩れてしまうなら、私は……なにもすべきじゃないんじゃないか。
 足元がふらつくような感じがして、私は目眩にも似た吐き気がしてきた。ああ、さっきまでの決心が揺らぐ。太陽の光がなんだか責めているようにきつく思えて来た。

 ゴマカサレテハ ダメ。

 突然心の中の何かが囁く。
 喉がごくりと鳴る。渇いた口の中、うまく言葉が出てこない。嫌な汗が首筋をかすめた気がした。
 私は、本当はどうしたいんだろう。
「……っ!」
 朦朧と、白濁しかける意識を叱咤して、私は頭の隅で鳴る警鐘を払うように頭を振った。知らなくていいこと、知った方がいいこと。そんなことは私はわからない。ただ、知らなくてはならないこと。それは確実なことだと、わかっている。確証はないけど。いずれは知らなくてはならない、真実。
 偽りの中で、なにも知らずに、目隠しをずっとできるはずもない。
 いずれ知る真実。
 なら、自分から知りたい。
 そして私はどこかで私を止めようとするなにかを振り払って言葉をつむいだ。

「あの、ね……」

「日和、ここでなにしてんの」
  不意にそんな声がしてびくりっと体を揺らした。
 体の呪縛が解けたようにあたりが鮮明になって息苦しさがなくなる。見ると、そこには年下の男の子、従弟のゆうが私を困惑した顔で見ていた。
「ゆう! 憩いの広場に涼みに来たの? あと……一時間あるけど」
  ふと気がついて腕時計を見た。授業の終わりを告げるチャイムはいつの間にか、すでに鳴ってたみたいだった。むしろそれから数分たっている。
 私が、イノリとイナリに必死に聞こうとしていた時に、鳴ったのだろうか。緊張しすぎて気がつかなかった。
 それにしても、と私はゆうを見た。授業が終わってからすぐ憩いの広場に向かったのだろうか。彼を見ると、特に走って来た様子もないけど、ここからゆうの教室って近かったのかな? そんなことを考えていると、ゆうが私の隣りを見て呟いた。
「……那俊?」
「あ、イノリが連れてきたみたいだよー。ゆうも撫でる?」
 那俊を抱きしめながら撫でて言うと、ゆうは苦笑して私を見たけど、那俊の眼をちらりと見ただけだった。イノリが苦手でも、那俊にはゆうも少し優しかった。だから私は驚いたんだ。ゆうが少しすると、急になにかに驚いた後その表情をがらりと変えた。
 え?
 私の動揺をよそにゆうがイノリとイナリを見た。
「どういうこと?」
 それは硬くて冷たい声だった。
「どうしてそういうことになってんの?」
 その顔は怒りをにじませていた。
「日和」
「ど、どうしたの?」
 私は状況がつかめず、私を呼ぶゆうにまたどもりながら答えた。
 思えば見ることが珍しい、三人の怒った顔。今日は一度にそれを見てしまった。けど私にはその原因が分からなかった。それと同時にああ、もしかしたら那俊とゆうは念話ができるのかもしれない。と、そんなことを場違いな状況で思っていた。もしかしたら結局、私は考えたくなかったのかもしれない。
 ああ、私はまた。
 心のどこかで出来たしこりが、暗く私の意識を蝕んでいた気がした。

「……熱はないみたいけど、帰ろう」

 気がつくとゆうが心配そうにこちらを見て額に手をそっと当てて来ていた。
「え?」
 はっとして改めてゆうを見た。離された手がそのまま私の手を掴む。
「僕、6時間目自習だし、日和……今にも」
 そこで彼は言葉を区切った。
「倒れそうなほど、手が冷たい」
 その言葉に私を見るイノリとイナリ。
「そういえば日和っ、お前気分が悪かったんだよな!」
「今はっ、気持ち悪いとかなにもない!?」
 私は詰め寄る二人にちょっと身を引かせながら、笑った。
「だ、大丈夫だよーゆうが心配しすぎなんだって。今はもう、全然!」
「じゃあさっきまでは調子が悪かったってことだね」
 ゆうの呆れたような言葉にむっとして彼を見ると、ゆうは強い目で私を見ていた。それに口から出かけた言葉が消えて、私は息詰った。
「もう、大丈夫だから」
 私は弱弱しくなる自分の声を叱咤しながら言った。

『五槻宮くん達にかまってもらいたいんだ』

 ……っ!
 背筋に寒気が走った。ああ、違うのに。
 さっきからずっと詠里ちゃんの言葉が胸に突き刺さる。焦ってしまう、私はかまってほしいんじゃないのに、迷惑をかけたくないのにと。ただ、真実を知りたかっただけなのに。震える手をぎゅっと握りしめた。
 けれどそれを別の意味でとらえたのか、ふっと息を吐くとゆうは私の手を引っ張った。
「ちょっと、ゆう」
「日和、早退するから。先生によろしく。あと荷物も」
「い、いいってば!」
 顔を見ずにイノリとイナリにそう告げるゆうに私は少し強めに言った。それに少し悲しそうな顔をするゆう。どうしてそんな顔をゆうもするのか、わけがわからない。けれど、私は息を吸うとゆっくり言った。
「あと一時間、そうしたら……帰れるから」
 それにゆうは困ったような視線をこちらに向けた。
 ゆうは優しい。だからお願いすればそんなに強くは出ない。そう思って私はもう一度口を開いた。
「あ、日和らこんなとこにいたの!?」
 そんな中を破るように明るい声が聞こえた。
「……って千弦ちゃん!?」
 開いた口は彼女の登場で別の言葉を発して、そちらを向いた。そこには少し息を切らした千弦ちゃん。そんな彼女の登場に私は心なしかほっとしてしまった。けれどそれも束の間で、次に出て来た言葉に私は口がふさがらなかった。
「あんた、早退しなよ。次自習だって。丁度よかったよほんともう」
 私のクラスも、自習?
 あまりに都合のいい状況に私は呆然とした。なにか、作為めいたものを感じてしまうのは私の妄想なのかもしれないけれど。そんなことを考えてしまってもおかしくないくらい、ことの次第が流れていく。
『五槻宮くん達にかまってもらいたいんだ』
 頭の中を木霊する言葉に耳をふさぎたくなった。違うのに、こんなはずじゃないのに。本当は誰にも迷惑かけたくないだけなのに。
「って、イナリとイノリはともかく日和の従弟くんがどうしてここにいんの?」
 不思議そうな顔をする千弦ちゃんにゆうはにこりと笑った。
「僕、日和のことおばさんから任されてるから」
 理由にならない理由みたいなものをゆうが口にすると、ふーんと興味深そうに千弦ちゃんはイノリとイナリそして再びゆうを見てから私を見た。うう、なんかにやにやしてるよ千弦ちゃん。
「ま、いいけど三人の誰かが日和を送ってくんでしょ? そろそろチャイム鳴りそうだし私は行くわ」
 千弦ちゃんはぽんっと私の肩に手を置くとにっこり笑った。
「あ、うん、じゃあまた明日ねー」
 去っていく千弦ちゃんにひらひらと手を振ったところで私ははたと気づいた。せっかく千弦ちゃんが来たから場が和んだのに、いなくなったら……。あれ? 私、そのまま流しちゃいけなかった。しかも早退する流れになってしまった。……恐るべし、千弦ちゃん。
「え、と私一人で帰るよ!」
「却下」
「なに言ってんの?」
 すぐにイノリとイナリの冷たい声が返された。なんか、前にもこんなことがあった気がするのは気のせいかなぁ? ちょっと悲しくなった。
「行こう日和」
 黙っていたゆうが私の手を引っ張った。あ、そういえば手をつないだままだった。ってもしかしてそれに千弦ちゃんにやにやしてたのかなぁ。
 などと思っていると、イノリとイナリが止めた。
「ちょっと待ちなよ結人っ」
「別にお前がわざわざ日和を連れなくても、荷物も俺らの教室にあるし!」
「同じクラスにいながら日和の変化に気づいてやれない二人には任せられないね」
 鼻を鳴らすとゆうは二人を冷めた目付で一瞥した。こんな凍てつくような目を向けるゆうは初めてだ。私は絶句しながらなにも言えずに口を噛みしめるイノリとイナリをしり目に、ゆうに手を引かれ憩いの広場から離れた。
 ゆうは、優しい。いつでも私のことを心配してくれて、誰にも心を配れる、すごく優しい子。イノリとイナリのことはあまりよく思ってなさそうだったけど、こんな感情を表に出すことはなかった。
 なのに……。
 彼の目はイノリとイナリを殺しそうなほど暗く、鋭かった。
 いや、記憶の遥か奥の方で、ゆうのそんな顔を見た気がする。その時は、彼は……叫んで泣いていた。
 でもそれはいつ? どうしてゆうが、泣いていたの?
 ズキリと頭が痛む。これ以上は、思い出せない。
 前を歩いていた無表情なゆうは不意にくるりと私を見た。それに少し、びくっとする。
 それに表情を崩して申し訳なさそうに笑みを向けるゆう。
「ごめんね、日和。それも調子が悪い時に、こんな顔、見せるべきじゃなかった」
「う、ううん。ゆうは悪くない。私が……弱いから」
 体が。
 そうすべての発端は私。
 ずきりと胸の奥が痛んだ。
 弱いことにかまかけて、なにもしない。人が傷ついているのに、平気でのほほんと過ごしていたんだ。詠里ちゃんに、あんな言葉を言わせることになったのも、私が違和感をほっておいたから。
 ずっとこのままでいたかった。でも、これ以上なにかが歪むなら、私はのうのうと過ごすわけにはいかないんだ。
 取り戻さないといけない。私が忘れてしまったものを。
 だから、私はイノリとイナリを傷つけてしまうかもしれないと思っても、知ることにしたんだ。私は、揺れてはいけないんだ。
 さっきまで揺れる自分を思い出しながら目を瞑った。お願い、私は……揺れない強さが欲しいよ。
「ち、違う! 日和は強い! とても、僕には叶わないほど強いんだ! だけどっ」
 すると突然ゆうは私の手を掴んだ。目を開けると彼の必死で痛切な瞳が目に入る。
「日和だって……いつも笑ってるけど日和だって、傷つくんだって……それだけなんだよっ」
 そう吐き捨てるように言うゆうの言葉が自虐の言葉にも聞こえた。どうしてだかわからないけど、彼が――――泣きそうに見えた。叫びながら泣いた、あの日みたいに。懺悔と自分に対する怒り。
 でもそんなの、いつのことなんだろう?
 私はただ、どうしていいかわからずゆうを抱きしめた。そうすることしか、私には出来ない気がした。今の私がなにを言っても、ゆうの慰めにもなんにもならない。それだけはわかったから。
「……ごめん」
 ぽつりとゆうは呟いた。
「ん?」
 私は首を傾げて微笑んだ。それにぎゅっと私の制服のすそを掴むとゆうは絞り出すように言った。
「僕が、慰められるべきは僕じゃないのに」 
 ゆうは顔を上げると弱弱しく笑った。
「一番、辛いのは、日和なのに……ね」
 私は少し困ったような顔をするとそれを黙って聞いていた。それにはっとした顔をして慌てて言い直す彼。
「あ、ごめんっ。変なこと言ったね、僕。気にしないで」
 ゆうの言うことが分からない。どうして私が一番辛いのか。
 私はじっとゆうを見た。もしかしたら、彼は何か知っているのかもしれない。私が忘れてしまった何かを。けれど……。
 なんだか私は不安になって手をぎゅっと握りしめた。私は確かに何かを忘れてしまっている。けれどそれをゆうが本当に知っているかはわからない。それに私が記憶がないのはごく、一部の……詠里ちゃんのことで何かを探しているとか、そんなのとは関係ないのかもしれない。
 私は思い出したいと思っているはずなのに、手に汗が握って妙な不快感がする。
 このままではいけないのに、でもゆうに聞くんじゃなくて私が自分から思い出さなきゃいけないことなのかもしれない。けど……それができないから聞きたいんだけど。
「ゆう……」
 聞かなきゃ
「あの、さ」
「な、なに日和?」
 ゆうは、なにか知ってるの?
 例えば私が、何かを忘れていること。
 だけど。
「う、ううん」
 私は顔を横に振った。
「ただ、いつも心配かけて、ごめんねって……」
 出て来たのはそんな言葉だった。
 それにゆうは一瞬目を見開いて、優しくほほ笑んだ。
「僕、日和をほっとけないだけだから」
 そんな彼に私も微笑んだ、震える手を後ろに引っ込めて。自分の内心を隠しながら。
 私は、臆病だ。怖い。とてつもなく、怖いんだ。何かが心の奥深くで、聞くなと言う。それは決して聞いてはいけないことだと、今の平和を保ちたいなら。けれど心の反面では、知りたくてたまらない。まるで飢えたように。せめぎ合う相反する心が、ただ、胸の奥を切なくして、泣きたくなる。
 もう、なんでこんな頭の中ぐちゃぐちゃになるんだろう。
 また揺れた。揺れてしまった。もう、揺れたくないのにっ。
 また、首筋を掻き毟りたくなる衝動が起こる。そんなこと、意味はないのに。ただの……
『かまってほしいんだ』
「……――――っっ!」
「日和? どうしたの?」
 急に立ち止まった私に驚いてこちらを見るゆう。私はただ首を横に振った。違う、心配されたいんじゃない。かまってほしいんじゃない。
「ごめん、なんでもないよ」
 ただ……
 私はゆうの方へ向くと微笑んだ。
 ただ……
「ちょっと、考え事してただけ」
 この迷子になって泣き叫びたくなるような、締め付けられる切ない気持ちは――なんだろう?
 それを誤魔化すために、笑えないのに笑った。

 私は、臆病で卑怯だ。

 その時。
 私は何かを視界の片隅にとらえた。
 それはあの黒い鳥だった。
 ぞわり
  また、胸の中がざわついた。口が震えるのを感じた。怖い。またあの瞳に見つめられることが、まだ怖い。でもあの鳥は、あの鳥だけは確かな手掛かりな気がする。
 そんなことを考えながら戸惑いを感じていると、ふいにその鳥は飛んでいった。
「あ……」
 空の上へ飛び上がっていく黒い綺麗な鳥。
 私がこうやって立ちすくんでいく間にも、消えてなくなりそう。そして二度と帰ってこなくなる。そんな気がした。

 ダメ、見失ッチャウ

 ふらりと私は足を前に出しながら飛んでいく鳥を見た。

 ……マタ逃ゲチャウ?
 ソウヤッテ、逃ゲチャウンダ?

「日和!?」
  気がつくと私は、なぜかその時、その鳥を追いかけた。
 どうしてそんな行動を取ったのか、私はただ胸のざわつきの原因をただ知りたくて走っただけで、なにも考えてなかった。怖さもなにもかも、すべてが、記憶をとり戻すことにつながるなら。
 あの鳥が、すべての始まりだった気がするから。
 何かの始まりを起こした気がするから。
 もう一度逃げたら、私は壊れてしまう気がしたから。

 待って、行かないでと、私はそれだけを思いながら必死にやみくもに走った。ゆうの呼ぶ声にも振り返らずに、耳にも入れずに。


 

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