* 14 *
本当はずっと、このまま
変わってほしくなかった
心の奥底でそう願っていた
けれど現実は、ほおっておいてくれない
だから、私は求めた
このままでは……ただ、欠落したままだから
そして一つ壊れる音が聞こえた
それがどういうことか、知らずにいた
***
頬に風が撫でる。
私は右首筋に手を当てた。痛みは少しだけ残っていたけれど。引っかき傷はもうかさぶたに変わっていた。そして息を吸う。
少しだけ頭の奥が、晴れた気がするのは気のせい?
「なん、だろう」
私は先ほど頭の中で響いた声に、首に充てていた手を外すと今度は胸に手を当てた。さっきとは別の意味で動悸がする。胸が締め付けられるような、痛み。懐かしさで泣きそうになった。
「初めて、聞こえた」
私は小さく呟いた。心の中に響く懐かしい誰かの声。それが初めて音として、言葉として聞こえて来た。ほとんど声の質がわからなかったけど。それだけだけど、私は胸が切なかった。
「これも、もしかしたら忘れた記憶の、一つなの、かな」
私は呟いた。声は答えてくれない。
本当はその存在をだいぶ前から知っていた。小さい頃からそばに微かに感じていた誰かの気配、声、存在。けれど、今日はそれがちゃんと認識できていた。それが少しだけ、真実を知る恐怖をやわらげてくれた。風が吹く。頭上の柏木さんが枝を揺らす。心地よい葉の擦れる音と緑の香りに、私はふと笑った。
「日和ちゃん」
不意に顔を上げると、そこには作業着を着たお兄さんがいた。
「庭師さん」
私は目をしばたたせた。今回は幾分か元気な声が出たと思う。
庭師さんは私を少しじっと見た。なにか探るような目。だけれどふっと、笑った。
「日和ちゃんがこんなところでこんな時間にいるのは珍しいね。気分はどうだい?」
そばにしゃがみこむと、彼は私の頭に手を当てて撫でた。
風のように柔らかく、日差しのように温かい手が気持ちを幾分かやわらげる。
「大丈夫です。今回も柏木さんに助けてもらったし」
笑顔を向けると私は隣りの柏木さんに触れた。ごつごつとした樹皮の肌触りが手に伝わる。
「きっと、風を呼んだのも柏木さんですよね。すごく気持ちいい風を運んでくれたんです」
「……君は、本当にいい子だね」
ぷっと笑う庭師さん。私は首を傾げた。それをごめんと言いながら再び頭を撫でてくる彼。心なしか、目つきがとても柔らかくなった。
「それじゃそろそろ戻るとするよ」
「はい、お仕事頑張って下さいね!」
そのまま去っていく庭師さんに手を振ると、彼も手を上げて歩いて行った。
そしてその姿が見えなくなった頃、廊下の方で誰かが走ってくる足音が聞こえた。それに何気なく視線を向けると、その足音の持ち主と目が合う。
「日和っ」
「あ、イナリ」
私は間抜けにもそう言い返した。そう言えばイナリ、私についていくとか言っていたはず。保健室にいったん行って、こっちに来たのかな。そう考えていると、少し悪いことをした気がした。私、イナリを振り回してる。心配かけているのに。
『五槻宮くん達にかまってもらいたいんだ』
ズキリ
詠里ちゃんの言った先ほどの言葉が蘇る。ほんと、私最悪だね。体が弱いことをいいことに、ほんと、そう言われてもおかしくないことした。
「おいっ」
すぐそばで声がして顔を上げると、そこには息を切らしたイナリがいた。少し、汗をかいてる。こんなに心配かけちゃったんだ。
「お前、保健室じゃなくてこっちにいたのかよっ」
息をつくと、しゃがみこむ彼。
「ご、ごめんね。柏木さんのとこの方が気分、よくなること多いから……」
その言葉にばっと顔を上げるイナリ、その表情は焦っていた。
「ちょ、お前またそんなことを言うっ。あの方が来たらどうしてくれる……って!?」
私の方を見てイナリは絶句して両肩を掴んで来た。
「い、イナ……?」
「お前その首どうした!?」
その言葉と共にそっとイナリは私の右首筋に触れた。痛みが走る。それと共に妙なくすぐったさが首にしびれたように駆け抜ける。
「っ……!?」
私は後ろに後ずさった。顔が熱い。それに訝しむような表情を向けられるけど、そんなの構わない。なのに離れたつもりが、逆に手首を掴まれて引き寄せられた。
一度イナリの胸に当たって顔を上げると、彼の顔が至近距離に。それに変な悲鳴のような唸り声を上げて離れようとしたらまた失敗した。手首を掴まれたままだったんだ。
「……なんだよ。何があったんだよ!」
低く苛立った声に私はびくりと体を揺らした。ぴりぴりするような気配に息を詰まらせた。イナリは笑っていなかった。怒ったような、鋭い目。なにが彼を怒らせたのかわからない。
「な、なにも……」
「ならどうして
詰め寄るように再び首を見ながらそこを触れるイナリ。心なしか右首筋と言う言葉にひっかかったけれど、今度はただ、触れた首すじが痛かった。そして……私はただ今まで自分に向けられたことのない彼の眼が怖かった。
ゾワッ
「――っ」
怖気が走る。強く掴まれた腕が怖い。体が震える。
コワイ。クロイ、メ。
底知れない強い感情。色々な物がない交ぜになった色。
怒りと嫌悪、恐れ、困惑、悲しみそして嫉妬……。
飲み込まれそうな暗い色に私は身動きが取れず、イナリを突き飛ばして逃げ出したくなった。
頭が痛くなる。警鐘のように痛みが響く。いつの間にか後ろの木に押しつけられるように強く掴まれた手首、体が震えて寒いのに――それでも私は逃げれなかった。
逃げてはいけない気がした。わずかにイナリの眼の中に垣間見た悲しみに気づいたから。
あれ?
ふと心のどこかで何かが引っ掛かった。なにか不自然な感情があった気がする。けれどそれがわかる前にイナリははっと気がついて体を離した。
「……ごめん」
「う、うう……ん」
渇いた喉から洩れたのは小さな声で私は顔を振った。首の痛みはなくなった、頭の痛みも。手首も、少しあとがついたけれど大丈夫。……けれど体の震えは止まらない。
震えが、止まらない。イナリを直視できなかった。
私の様子をうかがうように伸ばすその手に私はびくりと反応してしまった。
それに息を飲む音が聞こえた。
「本当にっごめんっ」
それにずきりと胸の奥が痛む。イナリはただ、心配しただけなんだ。なのに私が勝手に保健室にも行かず……自分でつけた傷のことで怒らせた。彼の悲痛な声が頭に響く。
だけど首の傷を自分で作ったなんて、そんなこと言えない。これ以上、心配かけたらだめだ。心配を、かけられない
「っ」
私は意を決すると右首筋に手を当てて、目を瞑った。そして開いて手を離すとイナリを見た。
「ちょ、ちょっと蚊が止まってかゆかったから掻いちゃったのっ」
私は笑うと、彼は少し黙ると申し訳なさそうに小さく笑った。
「そっか……ごめん、ちょっと誤解してた」
そう言うと、イナリは私の首筋を見た。少し顔をしかめた彼の視線は私にはちょっと、落ち着かなくさせた。やっぱり首と言う場所だし……そういえば体の震えもなくなった。ふと気付いた時には私は普段通りに戻っていてほっとした。このまま震えが止まらないかと思った。
そう余程安心していたのか、気が抜けたのか私はイナリが近づいて首に触れてきていたのに気づかなかった。
「それにしても……掻きすぎ……」
すべらかな指が首に触れる感触。ゾワッと背中がむずかゆくなる。
「ふわっ!?」
再び触れて来たイナリから私は反射的に飛び退いた。それに一瞬顔を強張らせたけれどどうも様子が違うことに気づいた彼は、心配そうに私を見やった。
「もしかして、痛かった?」
「ち、違うけど!」
顔を赤くしながら言うと、イナリは不思議そうな顔してしばらく黙った。けれどふっと笑うとさらりと私の髪を手にすいて、頬に手を下ろしてきた。再び感じるむずかゆい感じ。咄嗟に私はそんな彼の手を掴んで止めたけど、逆に掴まれた。うなあ!?
「顔、赤いな?」
少し意地悪そうな顔をするイナリ。う、うわぁなんでそんな顔するの!? いつもはイノリの方がそういうのだからっ……余計心臓がっ。じゃなくって!
「み、右首筋付近っは私っ弱いのっ知ってるでしょ!? さ、さ、さっき触った!」
その言葉にぷっと笑うとイナリは私の頭を撫でた。心なしか嬉しそうな顔をしていた気がする。
「そうだったっけ」
「うひぃ!?」
すると今度は抱きついてきた。いや、抱きしめて来た? もうどっちでもいい。しかも軽くまた右首筋があたったからもう我慢が出来なくなった。とりあえずなにがなんでも振り払って、今度こそイナリから離れることに成功すると、彼を睨みつけた。
なんで、なんでこんなことになってるの!?
た、多分最初に右首筋に触れて来たのはわざとじゃないと思うけど。
それに……それにっ。
「それに誰かっ誰かっ、見てるよっ」
小さく赤くなりながらも必死で言うと、イナリは目を瞬かせた。
「まったくなに? 僕のいないところで逢引? 殺すよイナリ」
突然そんな馴染みのある声が聞こえたかと思うと私達はその方向へ振り返った。そこに腕を組んで壁に寄り掛かるイノリ。うわ、爽やかな笑顔怖い。な、なにか怒っている? なんで今日はイノリもイナリも怒っているのぉ?
私はちょっと泣きたくなった。なんだか疲れて来た。今日は、いつもより怖がったり、赤くなったり、冷や汗かいたり走ったり……心も体も久しぶりに動き回った気がする。
あれ?
そこでふとまた首を傾げた。
でもいたの、イノリの気配じゃなかった気が……。
「うまくクラスの奴らをまけなかったから心配して
考えている間につかつかとイノリが私の方に歩み寄って来た。私はそれにどうしていいかわからず慌てる。とりあえず、柏木さんの後ろに隠れて動けないでいた。二人ともから避難するには……ここしかないよ。
「え、えとイノリその……心配かけてごめんねっ。なんともないからっ」
『五槻宮くん達にかまってもらいたいんだ』
ズキリ
再び詠里ちゃんの言葉が蘇る。赤くなっていた顔が恥ずかしくなった。馬鹿みたいだ。本当に私、ここでなにやっているんだろう。これじゃあ本当に、イノリとイナリの気を引きたいがために、ここに来たみたいだ。
冷水を浴びたように胸の奥が冷たくなった。私の行動一つで、どれだけ迷惑をかけているんだろう。きっとさっきイナリが変だったのも、私を心配してたからだ。あんなこと、しかも学校なんかでイナリがするわけない。イノリが、大切な式神の那俊を学校に呼ぶことなんて、ない。
突然黙ってうつむいた私に、イノリが表情を改めて真剣に心配そうな顔を向けた。
「日和、大丈夫?」
「ごめん、私、酷いことしてるかもしれない」
その言葉にイノリとイナリが私を見る。二人の真摯で、透明な瞳が私の次の言葉を待つ。どういう意味か、私に答える時間をくれている。
風が吹いた。
あぁ。私って、甘やかされてばっかだなー……。
瑞々しい緑の香りと、温かい空気。柏木さんが私の背を押してくれている。それだけじゃなくて、周りの植物や花も騒ぐのを止めて私を励まそうと揺れていた。
「私、自分の体が弱いことに甘んじて、二人に迷惑ばかりかけている。もしかしたら、皆に気を引いてもらいたいと思っている、嫌な子なのかもしれない」
黙って私の言葉を聞くイノリとイナリ。そうされると、私はしゃべるしかない。しゃべると、自分の胸の奥にある黒いものが外に出てきそうなのに。
「だからっ、こんな子のことっ心配なんかしなくていいんだよ」
こんな醜い私なんか。
ほおっておけばいいんだよ。
「無邪気に笑いながら、知らずに人を傷つける。私、そんな子なのかも。だから……」
「日和」
突然イノリが遮った。見るとため息をついていた。
「誰かに、なにか言われでもした?」
「違う」
私は首を振って否定した。詠里ちゃんが頭の隅でかすめたけど、そんなこと関係ない。本当は彼女が言っていることが真実なのかもしれない。するとイノリはイナリと顔を合わせると、私に近づいて手を伸ばした。両頬が柔らかい手で包まれた。そう思った途端上を向けさせられた。目に入るのは、イノリの悲しそうな目。
え……?
「そんなこと、僕は構わない」
私は黙った。なにも言えなかった。イノリにこんな目をさせてしまった。前に、こんな目をさせたことがあった。二度と、同じようなことは言わないと決めたはずなのに。でも……それはいつのことだった?
「日和がわざと僕達の気を引かせている? 上等。それは僕も望むところだよ」
いつもなら冗談のように悪戯っぽく笑みを浮かべるイノリは、ただ、悲しそうに笑っていた。
「僕は、日和が好きだ。ただそれだけなんだよ。悪いのは日和じゃない」
そう言うとイノリは抱きしめて来た。まるで壊れモノをあつかうように優しく。包むように。
そしてイナリも私の手を取ると、それを握り締めて来た。温かく、凍てついた心を癒すように。
「責められるべきは……俺たちだ」