Promise

〜一章・13〜




* 13 *


 くろいの。
 きろいの。
 ミナイデ。
「はぁはぁはぁ……っ」
 私は走りながら頭にこびりついては浸蝕するように響くことばを振り払おうとした。けれどそれはいまだ私の頭から離れてくれない。それでも走った。もう私はそこ以外に行くところなんて、考えられなかった。ううん、考えてなんかなかった。黒から逃れられるなら、どんな色でも埋め尽くしてくれるなら、どこへでも行った。
 額を伝う汗。
 今は授業中のため、廊下は静かだった。本来なら私も教室の中にいるはず。今はいない。廊下へただ足を進める。ある場所へと向かうために。
「はっはぁ……っ」
 走る限界が来て、私はとうとう歩いた。階段の手すりに手をかける。そして足を止めて息を吐く。その少しの動作だけで疲れる。
 息をつく。
 鋭い視線。
 くろいの。
「――――っ!」
 きいろいの。
 私は再び足を進めた。言葉が再び頭の中で響く。もういやだ。こわい、はやくしないと……
「くろ、いの……」
 私は震える口から言葉を吐いた。
 シンショクされてしまう。
 そして建物から出るドアにたどりつくと、私はそれを押した。
 ふわり。
 瑞々しい爽やかな匂い。
 温かい日差し。
 一面に広がる緑色。
 憩いの広場。
 私は重い体を緩やかに動かした。目指すは柏の木。誰もいない広場に風が吹き抜ける。緑が私を包み込む。怖い気持ちもなにもかも、黒さえも薄めてくれる。
「……っはぁ……」
 私は息を吐くと、がくんと膝をついて芝生に身を沈めた。少しだけ冷たい土と緑の香り。木々が日差しを遮って涼しい影を作ってくれている。目の間には溢れる緑。誰もいない、用務員さんも、なにも、人も、人でない者も。
 疲れた体に冷たい緑が心地よかった。もし誰かこの姿を見たら、なんて恰好してるんだと、言うかもしれない。それでも構わなかった。私は、心から疲れていた。土や緑に、身を沈めたいほど。
「くろいの……」
 私はそっとつぶやく。頭の中は今は静かだ。けれど、心の奥はえぐられたように言葉が染みついていた。心の中から吐くように、追い出すように言葉をつむぐ。
「きろいの……」
 心が枯れかけた、水を求める魚のような渇きと疲れがあった。どうしてあの黒い鳥は私に近づこうとする。どうして私をあんな眼で見る? そんな考えが私の中で浮かんでは消える。
「……こわい」
 誰にも聞こえないほどちいさくつぶやく。
 そう言えばイナリはどうしたんだろう。保健室に行ったのだろうか。……みんな心配してるだろうな。イノリも、私に気づいたかも。あと……そういえば、あの、階段の途中で感じた、突き刺すような視線はなんだったのだろう。さらさらと風に揺れて葉がこすれる音。ゆるやかに訪れる睡魔に私は身をゆだねようとした。
 もう、考えるのはよそう。これ以上考えても、意味がないなら。これ以上、心が壊れそうなら。
「……」
 私は優しい影の中、ゆっくりと目蓋を閉じた。
 その時、じゃりを踏みしめる音が聞こえた。
「なにあんた、保健室に行くと思ったら『広場』になんか来てさぼりってわけ?」
 上から降り注ぐのは冷たい突き刺すような視線と言葉。
 私はゆっくりと体を起こした。
 そこにはショートヘアに綺麗に髪留めをした女の子。私より少し背が高い。
「詠里ちゃん」
 私は困ったように笑った。そんな私の小さい声に苛立たしげに彼女は顔を歪めた。
「安栖さんに名前を呼ばれると胸糞悪いわ」
「……ごめんね、私」
 私は笑った。本当はそんなことしたくなかったけど、じゃないと私は心に刺さった言葉を意識してしまうから。
「気持ち悪い」
 私はぴくりと指を動かした。笑顔が固まる。見ると嘲るように彼女はこちらを鼻で笑った。
「その笑顔も、友達だったと言う事実も、その存在自体が――気持ち悪い」
 彼女の言葉が刃のように胸をえぐる。彼女の瞳が、私の奥のなにかを見透かしたように嫌悪と拒絶の色を示す。私の中の知らない私を、凍てつくような瞳で見ている。
「えいり、ちゃ……」
「迷惑」
 遮るように冷たく言い放つ彼女。もう顔も見たくないのか、彼女は背を向けていた。
「そうやって気分が悪そうにして皆の気を引かせて、五槻宮くん達にかまってもらいたいんだ」
 一度だけくるりと振り返ると、彼女は侮蔑の眼差しで見下ろした。
「あんたと別のクラスでよかったわ」
 言葉が私の頭を真っ白に染める。耳鳴りがして、動悸がする。嫌な汗がにじむ、寒気がする。吐き気がする。そんな私を詠里ちゃんは鼻で笑った。
「あんたのクラスの人が可哀想だよね、こんなモノと一緒だなんて」
「峰早、さん」
 私はなんとか振り絞って言葉をつむいだ。不快そうに顔をしかめる彼女。名前で呼ばれるのは嫌だと、彼女は言った。だから変えた、けどそれでも嫌悪の眼差しは変わらない。あの黒い鳥と似た、心の奥を見透かすような瞳は……拒絶していた。
「私っ、なにかした? 覚えてないのっだけど! もしそうなら、ごめんなさい。覚えてなくて、ごめんなさいっ。でも私は詠里ちゃんのこと、今でも……」
「気持ち悪い」
 遮って苛立たしげに吐き捨てる詠里ちゃん。
「理由なんて、それだけだよ」
「でも昔はっ」
「覚えていないんじゃなかったの?」
 無表情で彼女は私を見つめた。私は息を飲んだ。透明な瞳、すべてを知ったような。
 だって、私は知っている、詠里ちゃんは、昔こんな顔をする子じゃなかったこと。ただ……
 知っている(・・・・・)だけ?
 私は違和感に怖気が走った。何かが、食い違っている。どこかが欠けている。そんな気がするのに、私はそれがなにかわからなかった。もう少しでそのなにかが掴める気がした。けれどそれも詠里ちゃんの言葉で掻き消えた。
「都合いいね……その気持ち悪い顔を二度と私の前にさらさないで」
 そう言うと彼女は歩いて行った。次の言葉を待たず。風が吹き抜ける。
 温かい日差しが当たっているはずなのに、背筋に寒気がする。息苦しい。
 私は怖かった。詠里ちゃんは、小さい頃からの友達だった。なのにいつの間にか、こんなふうになっていた。いつからなんだろう。どうしてなんだろう。そう思っても答えは出てこない。それは……
 それは……
「私っ……どうして記憶がないの?!」
 詠里ちゃんと遊んだ記憶がなかった。ただ、写真のように彼女の小さい頃と彼女が私を呼ぶ声だけは記憶にあった。でもそれだけ。他はなにもない。それが違和感の正体。
 自覚してなかったわけじゃない。
 心のどこかでなにかが欠けていることは知っていた。
 窓ガラスが割れた時の、断片的な記憶とか。
 夢で見た、誰かのこと。
 夢はともかく、断片的な記憶は私の記憶のはず。なのに一つも心当たりがない。
 どうしていつも何かを探しているのか、なにを探しているのかわからない。その意味を、知りたかった。
 でも、怖かった。その真実を見ることが怖かった。
 なにもかもが崩れる。あの瞳、見透かされるような瞳に私は……
「壊れる」
 呟きが漏れる。黒い鳥を見てから私は変だ。どうして今更そんなことに気づいたんだろう? どうして今になって詠里ちゃんの存在(・・・・・・・・)を思い出したんだろう? まるでわざと目くらましをさせられたような、なにかを目隠しされたような感覚が蘇る。
 それが今更暴かれる、恐怖。
 そう、今更なんだ。どうして今更、今まで忘れていたことを思い出す?
 平衡感覚が狂う。足元がふらつく。
 瞳、イナリの瞳、イノリの瞳、詠里ちゃんの……瞳。
 すべてが、私の奥底に眠るなにかを見ている。
 あの黒い鳥と同じ瞳で。
「見ないで!」
 私は震える声でしぼりだした。けれどそれはかすれて小さく、誰にも届くことはない。黒い鳥が脳裏によみがえる。

 ミナイデ
『 
なら見なければ、すべて忘れたら……よかったんだよ 』

 声が頭に響く。自分の声と誰かの声。
 懐かしいような、今まで何回か聞いたことのある声が。

「怖いっ」

 コワイ
 守りたかった、日和を脅かすものから 

 苦しくて右首筋に手を当てて、引っ掻く。
 そんなこと、誰も望んでいるわけでもない。ただ単なる自傷行為。

「イヤダっ」

 くろいの。
 きいろいの。
 すべてをのみこむあのキレイなイロ。
 あの懐かしい優しい声は沈黙したまま。なにも答えてくれない。

「見ないで!」

 よごれている。
 こわい、そこをしれない。

「見ないでよぉ」

 みにくい、わたしのココロ

「怖いのぉっ」

 こわれる、わたしの、わたしの……イママデ

「……え?」

 そこで私は自分の考えたことに震えた。私の「心」?
 私は黒い鳥に怯えていたんじゃなかったの? 私は、自分の心が見透かされるのが嫌だったの? あのすべてを見逃さない瞳で。醜い私って?
 ぽたりと何かが地面に落ちた。
 見るとそこはなにかで濡れていた。
 顔に手を当てる。私は泣いていた。涙をぬぐった私の右手に血が着いていた。
 こわい。私が知らないところで、皆動いている。イナリが怪我をした。今度はイノリも腕に怪我をしていた。
 こわい。だけど……私はそれでも……
「しりたい、おねがい、しりたいよ」
 私が忘れた何かを。
 今起きている何かを。
 今を、壊したくはない、けど。
 だから私は、初めにあの黒い鳥に会った時、もう一度会いたいと思ったんだ。
 そして今でも怖いと思いながらも、あの黒い鳥のことを思い出しているんだ。

 あの鳥が私に真実を教えてくれそうだったから。

 いつか、こんな日が来ると思っていた……隠しきって、このまま生きれるはずがなかったんだ。でも……これ以上は 

 黙っていた懐かしい声が頭の中を響く。けれど私にはそれがなにを言っているのかわからない。今まで見守ってくれた、誰か優しい誰か。姿もなにも声色さえわからない、おぼろげな存在が私に呟きを落とす。
 
『 
少しだけ解放するよ……日 』

 そんな声が聞こえた気がした。
 そして心の中のなにかが音を立てて崩れた。心の中に巻きついて、外れることがなかった(たが)の一つ。それがカシャン……と外れた気がした。
 



 

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