Promise

〜一章・12〜




* 12 *


「ちょ、日和!」
 少しきつめに呼ばれて私ははっとした。見ると千弦ちゃんがやっちまったという表情をしていた。その横でやれやれと言った様子の清ちゃん。
 ただいま五時間目の化学実験。ヨウ素液がシャーレに入ったジャガイモになみなみとかけられて紫になっていた。いや、それを通りこして黒い、怖いほど。
「う、うわぁあああ」
「日和ちゃん危ないって!」
 思わずその真っ黒に染めてしまったものを見て今度はヨウ素液の瓶を落としそうになったところ、清ちゃんに止められる。ほっとする班のみんなのため息が聞こえた。
 ま、まずい。私は冷や汗をかいた。また私、意識が飛んでたかも。
「ご、ごめんなさい!」
 私はとりあえず班のメンバーに謝った。班は千弦ちゃん、清ちゃんと他に男子が二人。簡単な実験なのに、私がもたもたしている上、危うく惨事になるところだった。
 音楽の時間の前に気分が悪くなってあの黒い鳥を見て以来、なんだか物事が手に着かなくなっていた。
 今なんとかバレずにすごしているけど、意識を飛ばしてしまっていたところを見ると……気づかれたかな。恐る恐る見ると班の皆はヨウ素液のことは気にしない様子で私を気遣ってくれた。
「安栖さんもしかして調子わりぃ?」
「動くの辛いなら座ってていいぞ?」
 他の男子メンバーが私の代わりに実験を進めるべくてきぱきと動く。また私が貧血を起こしたと思われたみたいだ。けれど実際はただ、ぼーっとしていただけ。気分は……いいわけじゃないけどすごく悪いこともない。少し頭痛がするだけ。清ちゃんと千弦ちゃんにも勘違いされて、彼女らも私の仕事をすぐに片付けた。尚更私は申し訳なくて、どういう言おうか迷っているうちに実験の準備が終わってあとは待つだけになった。
 わ、みんな仕事早い。
「羽間くん、室生くんありがとう。それに清ちゃん、ちづちゃんも」
 本当に私、どうかしてるな。授業中でその上実験なのに。自分に情けなくなってくる。
 そんな私になんでもねぇよっと笑顔で言う男子二人。
「無理して動かれるとかえって困るからね」
 けれど、ぼそりと言われた清ちゃんの言葉に一瞬しーんとなった。う、うわぁ清ちゃん怒ってる。まだ弱冠怒ってる……ガラスが割れた日、調子が悪かったのに嘘ついたこと。
「ほんとねぇ? 日和には困ったもんだよ」
 千弦ちゃんにも言われ、私はなにも言えなくなる。い、痛い。二人の視線が痛い。
「あ、あのね。今日は調子悪いとかじゃなくて……」
「わからんね、日和は嘘吐きだから」
「辛くなれば辛くなるほどポーカーフェイスがうまくなる安栖ちゃんを信じられません」
 言葉の途中で遮られて冷たく言う、二人。男子二人は大人しく様子を見守っている。と、言うか実験の結果がもうそろそろ出るかなと意識をそっちに向けてる。うう、冷たい。自業自得だけどっ。
「う、この間の節はご迷惑をおかけしましたっ! でも今日は違うのっ! あの黒い鳥が気になって! いつも近くに……」
 思わず強い口調で言ってしまったところではっとした。つい勢いで他の人に見えない黒い鳥のことを口走ってしまった。
「黒い鳥? なんだそれ?」
「しかも近く?」
 羽間くんと室生くんがこちらを見る。二人とも笑っている、けれど目が怪訝な様子でこちらを見ていた。
 あ……
 私は焦った。人には見えないものが見える。そんなことをみだりに見えない人に言ってはいけない。お兄ちゃん達やお姉ちゃんに言われてたのに。必要がないのにそれを口にすることは不用意に他の人を怖がらせる。
「そのっ!」
「烏でなく?」
「え?」
 問われた言葉に一瞬思考が停止した。カラス? え、あ、鳥は黒い、けど?
 一瞬彼らにもあの黒い鳥が見えたのかと思った。けれど違った。
「安栖のことだから蝙蝠を鳥と間違えてるんじゃね?」
「実はただの置物の鳥を本物と勘違いしてたとか?」
「ははっありえそっ!」
 ないよ、そんなの。
 なんだかほっとした半面、少し……期待に膨らんだ胸が落ち込んだ。そう、皆に、見えるわけないんだ。私がおかしいだけで。そして別の意味で情けなくなった。っていうか皆私のことどんなふうに思ってるの。 私でもそこまでじゃないよ……たぶん。
「てか、もうそろそろスケッチ」
 清ちゃんの言葉に私達は授業に戻ることにした。と、シャーレを見ながら私達が配られた紙に記入にしていると、ほとんど時間をあけず先生が様子を見に来た。うわ、危なかった。清ちゃんぐっじょぶ。
 そして私はシャーペンを動かしながら前を見た。
「――――っ!」
 シャーペンがぽとりと床に落ちる。
 あの黒い鳥が机にのって私を見ていた。
 どうしてっ。
 落ちたシャーペンを拾うこともできず、私は目を見開いてあの底の知れない黄色い瞳を見ていた。一週間前までは会いたかったはずのその黒い鳥を、私は今は怖く感じていた。なにかを思い出せそうな、懐かしい感じがする。そう思ったから、私は会いたかったんだ。
 でも今は逆だ。
 怖い。
 あの黄色の瞳が、強く 揺らぐことなく私に向けて来た感情を見た瞬間、私は黒い鳥が怖くてたまらなくなった。
 まるでそこにいるのが当たり前のように、平然とそこにいる黒い鳥。だけど誰も気づかない、顕微鏡の映った細胞のスケッチにいそしんでいた。それをどこか遠くで、感じていた。彼らが背景のようだ。黒い鳥の存在だけがそこに浮き彫りにされて……目が離せない。
 怖い怖い怖いっ。
 すべてを飲み込んでしまうような黒。責める様な絡みつき見逃さないと言うような黄色。それらが私の中の心の奥深くにあるなにかを見透かしているようで、逃げたくなった。けれど体は動かない。
 震える体で口をなんとか開く。
 綺麗な黄色の瞳が、薄く笑うように細まる。
 嫌だ。
 ゆっくりと音もなく黒い鳥は私の真正面まできた。柔らかになににもあたらずに、スポンジの上を歩くように。もう、手を少し伸ばせば触れる。かたかたと口が震える。
 いやだ。
 黄色の瞳が私を見る。逃れることは叶わない、肉食獣に睨まれたように。
 黒い鳥が面白そうに私を見て、バサリと羽根を広げる。体がまだ動かない。翼を広げて舞い落ちた羽根一つ、机から床に落ちる。あたりが黒い鳥の羽根で染まる。黒に、黒が、黒へと浸蝕する。
 イヤダ。

 クワレチャウ。
 黒い翼、黄色い目が笑う。
 黒い羽根が私の頬に……。
 
『ヒヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』

 黒い鳥が警笛のような鳴き声を上げる。

 ピシッ

「日和?」
 温かな少し低い声が落ちる。
 その途端、音が戻ったように世界が動く。班の皆が顔を上げる。
「お? イナリお前スケッチ終わったのか?」
「ん? ああ」
 羽間くんの問いにイナリが答える。
 固まっていた景色が動き出す。
「日和はできたのか?」
 肩に触れるイナリの手の温もり。
 固まっていた体に力が抜ける。
 けれど
「いや、だ……」
「え?」
 小さく掻き消えてしまうほど小さく自分の口から洩れる言葉。先ほどまで言えなかった言葉が、今になって出てくる。うつむく私に驚いた顔を見せるイナリ。きっと他の皆には聞こえなかったんだろう。隣りに座る清ちゃんにも千弦ちゃんにも聞こえていなかったみたい。それなのに私の後ろにいたイナリが聞こえていたのはなんでか知らない。
「日和?」
 焦りを含んだイナリの声と手にこちらを振り向けさせられる。
 私の顔を見てなにかを口にしようとする彼を遮って室生くんの声が聞こえた。
「うわ、ちょ、シャーレにひび入ってんじゃん!」
「あ、俺のもだわ」
「……ってこっちのも?」
 室生くんと羽間くんの声に続いて首を傾げる千弦ちゃんの声。清ちゃんは……。
「安栖ちゃん、大丈夫?」
 心配そうに焦りを含んだ瞳が向けられる。心のどこかで、少しイナリと似ている気がすると感じた。
 その言葉に心なしかイナリの手に力が入った気がした。
「ま、いいよこんなの。……日和、あんたすごい汗だけど!?」
 イナリの手を払って千弦ちゃんが私を覗き込む。
 わらわなきゃ。
 私は震える口を開けた。
「くろ、い……の」
 でも出て来たのはそんな言葉。
 だめだ、シンショクされる。
 私は顔をふると、体に残る有らん限りの力を全部出して笑った。ちゃんと、わらえたかな?
「お前、保健室行ったほうがいいんじゃね?」
 室生くんの言葉がぼやけて聞こえる。私は彼に振りかえった。そして笑顔を向けるとうなづいた。そんな動きだけでも、体がふらりと揺れてしまいそうだ。
 荷物も教科書も置いて私は席を離れた。
 もう、黒い鳥はいない。視界に白い床が目に入る。薄汚れた白の床。私の席のそばにもどこにも黒い羽根なんて落ちてなかった。
「私が日和についてくっ」
 慌てた千弦ちゃんの声とイスの引く音。それを制すようにイナリの声が聞こえた気がした。
「いい、俺がついていくから! お前まだ実験の紙、終わってねぇだろ」
 教室の中は相変わらず騒がしい。先生はどこに行ったんだっけ? 準備室かな。クラスの皆がこちらを見ている。
 くろいの。
 きいろいの。
 はね。
 私は脳裏に浸蝕する言葉を掻き消そうとした。
 ドアを思いっきり開く。
 そのドアを閉める時教室を振り返った。その小さな時間誰かと目があった気がする。
 驚いた顔の知っている顔の男の子。
 ああ……イノリだ。
 私はドアを閉めた。
 そして走り出す、保健室へ――――ではなく、頭にひらめいた一面の緑の場所へ。
 くろいのに、すべてをシンショクされるまえに
 べつのいろでまもりたかった

 まもりたかった
 ワタシがべつのナニカにかわるまえに
 いまのワタシを、コワスまえに
 みんなといたいから



 

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