空を見上げていつも思う なんて綺麗なんだろうって なんてかなわないんだろうって なんて……遠いんだろうって それはあの人を見たときと同じ感情だった。 「ヘキテ」 風が吹いて振り返ってみると、あの人がいた。 「ヒノウ様、こんにちは」 私はそう言うとありったけの笑みを浮かべた。あの人はそんな私に優しく笑みを返してきた。 一つにくくられた絹のような柔らかな黒髪。不敵な笑みは何事にも動じず、静かにたたずんでいる。聡明であの空の青を思い浮かべるような深い瞳はなんでも見通すようで、不思議な輝きを放つ。均整の取れた見事な体躯は無駄なところなど一つもない。そして頭上から降りてくる低くて、温かく柔らかな声はまるで木漏れ日みたい。 「また、空を見てたのか」 「はい、僕は空が大好きなので」 そう言うと少しあの人はにこりと笑った。あ、誤魔化し笑いだ。どうしてかな。私はおかしなことを言ったのでしょう、おそらく。 「なぁ、私の前で自分のことを『僕』と呼ばないでと言わなかったかな?」 「はい、お聞きいたしました。でも仙人様の前では『僕』ということが決まりでして……」 「私が許可するよ」 「ですが……」 「お前は私の弟子だろう、ヘキテ」 「……かしこまりました」 苦笑すると私は仕方なくそう返事せざるを得なかった。あの人は私の師匠様だ、逆らえるはずなんてない。 そういう私にあの人は手を伸ばすとさらさらと頭を撫でた。まるで日差しのように温かく、風のように優しいお手だ。そのまましばらくあの人の様子を伺うとあの人は地面に座り込んだ。お召し物が汚れてしまわれるのに。しかしいつも気になさらない。私が言ってももはや無駄と前に諦めた。 それから少しして私はあの人の許可を得、隣に座った。 そして再び空を見る。 ああ…… いつも綺麗で届かない でも私は知っている。たった一つだけ空に届く方法を。 私はすっと立ち上がると空を見上げた。心も息さえも奪ってしまいそうな、青。 誰にも向けたことのないような笑顔を向けると、そっと私は口を開いた。 ― 届かねど届かねど 聞こえましょうか 私の息吹きが風に乗り 貴方の元へ届きましょう ひゅーりさらしゃん しゃんからとん 私の声は聞こえましょうか 触れざれど触れざれど 感じましょうか 私の吐息が木魂となり 貴方の元へ響きましょう ひゅーりさらさら りんからとん 私の心は届きましょうか…… ― 空の青。静かな灰の雲。夜を告げる赤。帳を下ろした紺。 生まれた時から存在し、いついかなる時も見守ってくれる存在。 私はそんな空を見ることが好きで、空がなにより大切で愛おしくて……幸せを感じた。 私の歌が風を呼び、空をかけあがる。空気を震わし、空に届く。 歌い終わって、私はずっと空を見ていた。こうしていくらでも上を見上げていても飽きない空は今日も綺麗に優しく見下ろしてくれる。 そして私はいいことを思いついた。 地面に手を当て、すっと円を描き、盤をその真上に角度を決め添えた。 すると出てきたのは雨上がりの露や夜空の星と並ぶ煌く水の玉を連なった飛沫。その飛沫が天上へ吸い込まれるように広がり上がり、少しして晴れた空からしとしとと優しい雨が降りてきた。 そして幾分もしないうちにそれがやんだかと思うと空には二本の五色の帯。 「今日は特別もう一つ、お見せ下さるのですね」 空がくれた美しい帯に私は見惚れた。 「……ヘキテ」 ふいに私を呼ぶ声がして振り返ると、そこにはあの人がいらっしゃった。 「はい、お呼びでしょうか」 笑顔で答えるとあの人はこちらを向いたまましばらくそこにいらした。 そのまま私も黙ってあの人を見ていた。あの人の目は空に似ている。深く遥かな青の久遠。 「……弟子を取られるのはあまり気持ちがいいものではないな」 つぶやくように言われたあの人の言葉にふと顔を上げると、なぜか目の前が何も見えなくなった。 「ヒノウ様? 前が見えませんが……」 「これで空も見えないだろう?」 「はい、なにも見えません」 「では私の声は聞こえているか」 「え、はい」 「私の心は届いているか」 「ヒノウ様の心の臓の音なら耳に届いております。大丈夫です、貴方は生きておられます」 そう言うと後ろのあの人は黙った。なんでしょう? また私は間違えたのでしょうか。もしや心の臓のことではなく、人の気持ちのことをおっしゃっていたのかもしれない。 そう思いながらあの人の手を顔からどけて、あの人を伺ってみることにした。 そこには少し意外そうな顔と少し、喜びの色が見えた瞳。 まるで夕の空に似ているかもしれないと、私は思った。 「……もう少し人の方にも目を向けてくれればなにも言うことはないんだけどなぁ」 「え、僕、見ていなかったでしょうか」 「いや、見てはいるんだが……見ていない」 ふっと笑うとあの人は頭を撫でてきた。 「見ていない?」 「そう、見ていない。ヘキテが見ているのは空。他は目に入れていない」 「そうでしょうか……」 少し考え込んでいると、上から苦笑が降りてきた。 「ヘキテは空そのもののようだ。つかめる様でつかめない」 「そんなことございません。僕はヒノウ様の方が空のようだと……」 「……私が?」 驚いたような声に私はあの人を見た。深く綺麗で優しい瞳。けれど私にはわからない、届かない色を秘めた瞳。 「そうか……それは……そうか……」 急にあの人は顔を手で覆うと、すとんとしゃがみこんだ。ああ、あの人の耳が赤い。まるで空との再会を約束する焦がれるような陽の赤に似ている。 さらりと温かい風が吹いて私は空を見上げた。深い久遠の青。永遠の青。ずっと見守るあの優しい色合い。 「今日も空は綺麗ですね……」 「ふ……敵わないなぁ」 くつくつと笑うあの人に、晴れ渡る空につられて私も笑みをこぼした。 「はい、とても深くて遠い。それでいてこんなにいつも傍にいるのに届かない。でも、絶対届かないってことはないのです」 「そうかな……」 「はい」 私はあの人に振り返ると、柔らかく微笑んだ。 |