「はぁ」 「なにその疲れた主婦みたいな溜め息」 溜め息をついていると、葉が言った。って言うか、ドアを開けるなりそのセリフですか。っていうか、私の部屋だよ、ここ。 「今なんかおねぇちゃんが溜め息つく頃だろうと思って来た」 「うっそ、テレパシー?!」 至極真顔で変なことを言う妹に私はつっこんだ。 そこでふと気がついた。葉がボケるなんて普通はない。今日はどうかしたのだろうか。 「入るよー」 「って言う前にもう入ってんじゃん」 「はいはい」 そう言いながら勝手に妹は私のベットの上に寝転んだ。 きしむベットに思う存分転がると、ふいに葉は再び勝手に本棚から漫画を取り出して寝読みを始めた。いったいなんなんだ、この子は。 「……くつろいでるし」 「うん」 素直に肯定する葉に再び溜め息をつくと、私はテーブルの上にあごをのせてだらりと手をのばした。 「……ねぇ」 「ん?」 漫画に視線を向けたまま、適当に答える妹をまぁ、いいやと思いながら言葉を続けた。 「私って、幸せだよね」 「へーそーなんだ」 「家もあるし、ご飯も三食食べられる。風呂に入ってパソコンもあって、友達もいるし、学校も行けるし特に危険な場所に住んでるわけじゃないし……」 他になにがあるだろうと私は天井を見た。可愛らしい花の形の電気がついていた。 「自分の部屋もあるし、親も妹もいるし、お金もあるし、好きなこともできる。今なんて春休みだし、勉強なんてしなくてもだらだらと過ごせる」 「うんうん」 「幸せすぎるよ」 笑うと、私はそばに置いてあったお気に入りのくまのぬいぐるみを胸に寄せた。茶色くて腕でギリギリ抱えられるくらいの大きさのくま。ふわふわで、包み込んでくれるような柔らかい感触を腕の中で感じた。 「でもさ、時々妙に悲しくて仕方がなくなるんだよ」 くまを見ると、その黒いボタンの目が心なしか傷ついていた。結構古いものだから仕方がない。 「今、この幸せな時間がなくなってしまう。そんな不安があるのかもれない。今の時間が夢でもうすぐそれが覚めてしまうのかもしれない。そんな感じかも。それとも逆に何かが物足りないのかもしれない。もう全部そろっているのに、何が足りないかわからなくて、でもそれがないと本当に幸せと感じられない。なにが足りないかわからないから、本当には幸せになれなくて、寂しい。だから、悲しくなるのかもしれない」 ぎゅっと私はくまを抱きしめると、ころんと絨毯の上を転がった。 「でも、この妙な寂しさ悲しさの確かな理由はわからない」 目を閉じると、背中の絨毯と腕の中のくまの感触が強く感じられるようになった。 「なにかが不安で寂しくて悲しくて、どうしようもなくてさ。いったいなにがおかしいって言うんだろうね」 ぱらりと漫画がめくられる音が聞こえる。自分の心臓が脈打つ音も聞こえる。家の外で車が通る音。胸のくまのふわふわ感。背中の絨毯の固い感触。自分の部屋独特のにおい。 視覚を遮っただけなのに、かわりにこんなにも他の感覚が鋭くなっている。それがなんだか不思議だとおぼろげに思いながら私は口を動かした。 「きっとどっかに大切な何かを落としちゃったんだね」 背中も熱い、胸も熱い。 「どこに落としたんだろう。何をなくしたんだろう……」 なんだか、目が熱い。のどが熱い。 「なんでこんなに寂しくてなにもかもがいやになるほど悲しいんだろう。なにが……いけないって言うのよ……」 最後の言葉はかすれた。 もう、このまま永遠に眠ってしまいたい。そんな気持ちが起こった。こんなに寂しくて悲しいならいっそ、と。 パンッ 上の方から破裂音が聞こえたかと思うと、ぎしりとベットのきしむ音が聞こえた。たぶん、葉が動いたんだ。 そっと目を開けると、葉が手を腰に当てて私を見下ろしていた。後ろから照らされた電気の光がまぶしくて、少し目を細めた。 「それはね」 静かに口を開く葉を私は手で目をかざしながら見た。 「おねぇちゃんは人生で一回も全力で何かをしたことがないからだよ」 真顔で見下ろしてくる葉。よくよく考えてみると、私達って変な構図。頭の片隅でそう思った。 「っていうか、全力でなにかをやりきったことがない。ってとこかな」 ふっと息をつくと、葉は私の上から退いてイスにどすっと座った。 「だから物足りない」 その言葉に、私は閉じかけた目を開いた。 「おねぇちゃんはゆっくりするのが好きだけど、あくまで色々なことをしている中で、なんだよ」 私は起き上がると、葉の方を見た。 そこには漫画を広げる妹の姿。 「本当はなにもかも手がつけられないくらい夢中で忙しくて、でも飽きない。そんな状態が好きなんだよ、おねぇちゃんは。一生懸命、自分のやりたい何かを本気でやり抜いて……自分は生きてる、自分は生きていいんだってそういう証がほしいんだよ。なにもすることのない、何かを必要とされない自分よりは」 饒舌に動く妹の口。あまりなにを言っているのか理解ができない。 「我儘なんだよ、基本的に。なにか必要とされたい。けど自分が納得するものでないといけない。高望みすぎ、無意識に。なのにそれに払うリスクをかけようとしない」 私は漫画をめくる妹を見るのが疲れて、腕の中のくまを見た。 可愛がられることが目的で作られた、もとは綿と布切れでできた、不思議な存在。 「リスクをかけようとしなきゃあ、一定以上のものは得られないわな。問題はおねぇちゃんの気持ち。本気のものを失くした悲しみを知らないからくすぶっていられるんだ、おねぇちゃんは。本気で何かを失すような賭けさえも、そもそも全力で本気になれるものも見つけられてないんだからさ」 全力や本気を連呼する妹。そして私がそれがないと何度も否定する。 そうされると、本当に私は何に対しても全力で本気になったことがない気がしてきた。 「でも……それに近いものはあるみたいだけどね」 「ん?」 ぱたりと漫画を閉じる音とともに葉は立ち上がった。……って2冊も読み終えちゃってるよこの子。 「……っていうかいつまでくまさん抱きしめてんの」 「へ?」 葉に言われてはた、と私は我に返った。この歳になって結構な時間結果的にぬいぐるみを抱きしめていた。 「え? だめ?」 「いやきもいよその構図」 「あっはっは、うるさいなぁ」 「つか、鬱になってる暇があったら私が貸した本返してよ。友達が借りたいって言ってるんだよ」 「あ、忘れてた。ごめんごめん」 「ったく、つーかくだらない話してさぁ、おねぇは」 溜め息をつく葉。そんな妹の溜め息が妙におばさんぽっくって笑えた。 「いつも愚痴を聞いてくださって感謝しておりますとも」 「へいへい、おねぇちゃんの感謝なんて別に大したことないしいらない」 「うっわぁひっどいなぁ」 うおらと私は葉の背中を小突いた。けど寸前でかわされる。うわ、切ない。 「じゃ、先風呂入るねー」 ひらひらと手を振りながら部屋を出て行く葉。そこで私は気づいた。葉は風呂の湯が入るのを待つために私の部屋で待っていたんだ。 「…………先越されたああああああああああああああああああっ!!」 |