Hisako's memories



「ふぅ……」

 アタシは溜め息をついた。
 今日はなにからなにまでついていなかった。
 朝は寝坊してご飯は食べれなかったし、仕事は仕事で忙しいのはいつもの事だったが今回の客がやけに気の使う客だっただけでなく、こっちにいちゃもんまでつけてきたのだ。更に外は雨。うっとうしくてしょうがない上服がぬれるのはいっそう嫌だ。なのに持って来た傘はホネが一本折れてしまった傘だった。

 それに…


 それに今日は

 あの子の

 命日




 そう

 今日はアタシが自分の初めての子どもを死に至らしめた日だった。

 実質

 殺したようなもんだ。

 17の春、アタシはみごもってしまった。生理が来ないと思ったらやはり、そうだった。アイツは中絶はできたらしてほしくないけど産みたくないならいい。でも産んでくれるなら責任はとる。お前と一生いる。好きだから…と言ってくれた。

―アタシは嬉しかった―

―アタシは大好きなアイツの子を産みたかった―

 だから…

 あのお堅い頭のヒトらには黙っていた。
 正直、前からあの家を出ていきたかった。偏屈し凝り固まった考え方、重苦しい気が張るような空気、不気味に暗い部屋、人形のように表情のないヒト達。なにもかもうっとうしくて吐気がした。だからあの日、黙って家を出てアイツと暮らそうと思ったんだ。

 でも…

 バレてしまった。


 アイツが…

 アイツが初めてくれたプレゼントのネックレスを
 取りに戻ったのが悪かったんだ…



 部屋に戻ってネックレスを手に取った瞬間、あのヒトらが部屋に入ってきた。刹那、アタシの脳裏に危険信号が走った。


―キケン
  

                             ニゲロ


                                       …コロサレル ―



 アタシは窓から飛び降り走って走って…死にもの狂いで逃げた。

 コロされると、

 この子がコロされるとわかったから。

 いつのまにかアイツと待ち合わせの場所に来ていた。アイツは驚いてどうした、と聞いた。そこは人通りの少なく、タクシーおろか普通の車でさえ滅多に通らない場所だった。


―…保科―

 アタシは思った。

 あのヒトらが追い付くまでそう距離はない

 必ず捕まる。

 と

 だからアタシはアイツに言った。
 バレた、一人で逃げろと。

 見付かったら、あのヒトらは権力によって人を一生社会で生活できなくさせる事くらいは容易いなんだ。アイツがそうされるのが怖かった。アイツはアタシの家の事を知っていた、なのに、私の手首をつかんでアタシと一緒じゃないと行かないと無理矢理引っ張った。

―嬉しかった―

 でも

 アタシは

 アイツを

 守りたかった

 アタシは素早くアイツを引き寄せ、溝内に拳を入れた。

 その時初めて…

 人前で泣いた。

 涙をぬぐい、アタシがアイツを公園の木の影に隠して出てきた。その瞬間、あのヒトらがやってきた。

 もう

 逃げられなかった。

 そして

 アタシはある条件の元で
 あの子を堕ろした。


 冷たい手術台の上

 あっけなく

 約2ヶ月と17日間

 アタシの中にいた子が取り除かれた。

 もう涙さえ出ない。

 アタシの腹にいた確かなモノが

 消えた。

 その喪失感が



 やけにアタシの腹を痛めた。











ざああああああああ…


 更に雨は激しく降り始めた。
「…確かあの時も雨が降ってたっけ?」

 アタシは苦笑しながら歩いていた。雨の時に出歩くのは気が退ける。嫌な事ばかり思い出してしまう。アタシは歩く速度を速めてマンションへ急いだ。人混みの中、アタシはだんだん人の間を歩くのがうっとうしくなり、近道をする事にした。普通の人は知らない裏道をアタシは通った。裏道といっても安全な方のだ。歩きながらアタシは思った。会ってあの子に謝りたいと。

 会って

 だきしめてやりたかった


 ふと、アタシは立ち止まった。道が二方に分かれていた。

 あの時、どうしてあの道を通ったのかわからない。
 普段なら迷わず右へ行っただろう。

 だけど

 アタシは左の道を通った

 左へ進み、しばらく歩いているとなにかがはばたく音が聞こえた気がした。不思議に思い、その音がしたであろう方向へ足を進めて角を曲がった先に…

 アタシは


 『堕天使』をみつけた


 少女が肩と足から血を流し、倒れていた。
 壁にはその少女の血が擦ったようについており、少女のまわりに何枚も黒い羽根が散らばっていた。まるで、羽根をもがれ、傷付いて堕ちてきた天使かのように。なぜか、その少女が綺麗に見えた。
 不思議と、アタシはその少女に引き寄せられるかのように近付き、そっとその長い黒髪に触れた。どうやら、少女は頭もケガをしているようだった。
 普通の人ならきっとこんなにも冷静になれないだろう。むしろ、気絶しかねない人もいただろう。でも、アタシはこう言うのは嫌いだが、変わっているのだろうと思う。こういう場面にいきなり遭遇しても驚かないのは多分、いや、絶対アタシの体質のせいだ。
 アタシはよくこういう奴らを拾っては看病している。別に望んでいるわけでもないのに向こうからやってくるようだ。そして、大抵アタシが拾った奴らはなぜかあまり人様には言えない事情をかかえているのだ。大人も子どもも拾った奴は結構いる。今、自分が生きているのが不思議なくらい危ない奴を拾った事もある。とりあえず、アタシはこういう体質なのだ。

 でも…

「あんた…いったいなにしたらこんな大ケガすんのよ。」

 なんだか…この子だけは

 他の奴らとは違って

 少しばかり感情移入してしまった

 その顔があまりにも

 純粋そうだったから

 多分、こんな事を思えたのも
 偶然あの子の命日だったからだろうと思う

 とりあえずアタシは脈をはかり、この少女に応急処置をほどこした。
 脈はあり、呼吸はある。いつも持ち歩いている使い古したタオルで止血して少女の頭を巻き、どこか骨折してないか確認した。どうやら骨折はどこもしていないものの、この子は左肩と右太股に刺し傷、切傷を負っていてそこからも出血していた。特に肩は脱臼もしている。更によく見てみると他にもこけた時につけたような傷や打撲もあった。
 アタシは特に傷がひどい足の方はタオルで縛り、肩はあまり負担がかからないように傷を押さえた。

「あー!まったくっ!」

 アタシは溜め息をつくと携帯を取り出した。

ピピッピッピッピッ

…トゥルルルル
トゥルルルル
トゥルルルル
トゥルルルル
トゥルルル…


『ああ?!誰だよ!?』
「アタシだよ、やっさん。」
『…あ、比佐子さんですか!ごめんなさいねぇ、今仕事で気がたっていまして…』
「今更ぶりっ子すんじゃないよ、このドス黒偽善医。」
『黙れ、比佐子。…ところでどうしました?』
「急患。今から瞬速『カラス』で栄華街、西南西のD地裏道のナカ3に来な。」
『………わかりました。』
「ヤバいからすぐ来なよ。」

 そう言ってアタシは携帯を切るとふいにとなりで声が聞こえた気がした。ふりかえると少女はまだ意識はないようだった。

「……なんか言った?」

 アタシは何気なく聞いたがなにも返事がなかった。気を取り直してカバンから別のタオルを取り出そうとすると少女のくちびるが動いた。

「………さ…ん…」
「え?」

 どうやらうわ言を言っているようだと再び振り返った顔をカバンの方へ戻した瞬間…

「…お母…さん」
「――…」

 小さくか細い頼りなさげな声が聞こえた。

 少女の目から涙が流れていた

―   ―

「大丈夫よ、安心して。アタシがそばにいる。」

 そう言うとアタシはそっと少女を右から抱きしめた。

 今考えてみるとよくアタシがそんな行動と言動をしたものだと思う。今までのアタシにはきっと考えられない。するとふとアタシは少女の顔を見た。
 とても落ち着いた、安心しきった表情をしていた。

「…」

 それから間もなくしてやっさんが『カラス』で来た。

「子どもか…」

 『からす』からでてきたやっさんが少女を見ると、開口一番に言った。
「…子どもでさえこういった傷をよくつけるようになりましたね。いやな、ご時世だ。」

 そう言いながらやっさんは少女をアタシと一緒に『カラス』の中へ運んだ。

 やっさんの診療所までの短い道のり、アタシはこの少女の安らかな寝顔を見ながら思った。


 この子を愛しいと…


 今度こそ


 守りたい


 と






 

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