* * *
「巴
雅 」
あたしは隣の彼に笑顔を向けた。彼はそんなあたしににこりと微笑んでくれた。
今日は良いこと尽くめだった。今まで連絡を取るだけだったけど、こうして平日に、しかも他の知り合いを交えないで会えるなんて思いもしなかった。それは 学校が違うからだ。小さい頃は一緒だったけど、今はお互い別の学校に通っている。だからいつもは誰かと一緒か、たまに電話で話したりメールでやり取りと言 うくらい。それに彼女もいるしね、気があるって思われても困るから。あたしは確かに巴雅が好きだけど、気の合う『友達』って意味だから。
本当に飽きれるほど楽しかった。まずは遊園地へ行って一日中遊びまわって、カラオケも行って、一緒にご飯も食べて……。
楽し過ぎる、時間だったと思う。
手に彼の体温を感じながらそっと握り返した。そんなちょっとした行動も普段とは違って、本当はとても勇気がいった。幼稚園の時から彼と手を繋ぎ慣れ ていた前までのあたしは、そんなに気にしてなかった。けれど今は彼女がいるしね、ちょっと悪い気がする。正直さっきから心臓がヤバイ。
あれから町の中を歩いていて、ふいに彼が空を見上げたかと思うと雨が降ってきた。
晴れているのに、ぽつぽつと降り始めた雨はお天気雨。撫でるように降る霧雨。
晴れてるのに雨だなんて、変な天気。あたしはなんだかしとしとと降る雨に空いた手をかざした。
あたしの心は雲すらない紛れもない晴れ。自分の心境とちょっと違う天気なのに、なんだかお似合いだって心のどこかで思ってしまった。うん、今日はなんだ か変に楽しいから。
あたしは彼を見た。すっと細められた目は空を見上げてそれは楽しそうに笑っていた。そんな彼のちょっとした表情の変化にもドキリと汗が出てくるほど緊張してしまっ て、あたしは早鐘のように鳴る心臓をなんとか落ち着いてなだめようとした。
「お天気雨だねっ。なんだか珍しい!」
くいっと彼の手を引くと、あたしは少し不自然な口調になっていた。
「そうだね。でも面白いじゃないか? 狐の嫁入りなんてあんま見れるもんじゃねーし」
そう言って彼はこちらに微笑んできた。優しく細められた茶色の目を見ると、ぞわりと胸が騒いだ。彼の顔を見ると、なんだか落ち着かない。大好きな目のは ずなのにまともに見られない。
「き、狐の嫁入り、って……」
それでも何か話そうとろくに考えもせず口を開いたら出た言葉がそれだった。うまく息が出来ない。
「ん? 知らないのか?」
首をかしげてくる相手に俯きながらうわずった声であたしは言った。
「じゃ、なくて。なんで狐の嫁入りって呼ばれるんだろうなぁって」
彼の顔を見てないのに動悸が治まらないあたしは、下を向いたままだった。なんでそんなことを聞いたんだろう。そんなのどうでもいいのに。
見るからに変な態度をしていただろうから、変な子と思われたんじゃないかと考えてしまった。狐の嫁入りなんて聞かなきゃよかった。あたし、どうかして る。それに『狐の嫁入り』なんて、なんだか嫌な感じだ。
彼と繋いだ手も汗ばんできた。うわ、やだ。気持ち悪い、急に汗かくなんて。なんか震えてきたよ、手。
すると上から彼がくすっと笑う声が聞こえた。どんな顔をしていたかなんて知らないけど、笑っていた。
「さぁ、僕にはどうしてだかわからないなぁ」
その声にはっと顔を上げると、すっと細められた目が飛び込んできた。そう、彼の顔が至近距離にあったんだ。鼻がくっつきそうなほど近くにいた。
「――――っっ」
冷や汗がしてあたしは慌てて後ろに下がった。急に目の前にいるなんて、び、びっくりした。怖いほど心臓が脈打った。
そんなあたしに再びくすくすと笑うと、彼は動揺するあたしをぐいっと引っ張った。そしてにこりと笑うと前へ向いて歩き出した。
『黙って手を引いて、ちょっとだけこちらを見て笑ってから歩く』
それが彼の『行きたい所があるからついてきて』というシグナル。彼はそれでよく面白いところへ連れて行ってくれるんだ。
あたしは更に高鳴る心臓を抑え切れなかった。これから行くとこ、すること。それを考えるだけで、なんだか動悸が先程より増していた。
きっと彼ならどんな所でも面白い所だ。そう、きっとそう思ったから動悸が止まないんだ。そう、きっとそうなんだ。
そう自分に言い聞かせることに精一杯で、内心を悟られないよう必死に笑顔を向けるのに集中していた。気持ちを誤魔化そうとしたから変な歪んだ笑顔になっ てしまっていたかもしれない。だから彼が人気のないところへ行ってもあたしは大して気にしなかった。もちろん、心臓はこれでもかというほど、飛び出てしま うんじゃないかと言うくらい脈打っていた。
「は、巴雅 」
歩く速度はゆっくりのはずなのに、息が上がっていくあたしは彼を見た。
「どうした? 気分悪いのか」
あたしの様子に気づいたのか、ぴたりと立ち止まって彼は振り返った。それと同時にあたしも止まり、胸に手を当てると必死で息を吸いこんだ。
「大丈夫か」
彼の戸惑いの気配を感じながらあたしはしゃがみ込んだ。うまく息ができない。苦しい、頭が痛い。
痛みに耐えたけど、しばらく頭痛と息苦しさは続いた。かすかに視界がぼやけてきた。しかし、痛みを押し出すように吐き出した。すると妙にだんだん力が抜 けてきた。
「いやっ、気持ち、わる」
必死に体に力を入れようとした――――
瞬間
ひやりとと頬が何かに包まれた。
そのとたんにあたしの体は時を止めたように固まった。
顔を上に向けられて目の前にいたのは、覗き込むようにあたしの目を見ていた彼。彼はしゃがみ込んであたしの顔に両手を添えた。昔から変わらない優しい表 情。
「ね、そろそろ気づかないかな」
優しく囁くように言う彼の声が耳に届く。かすかに吐息があたしの頬を撫でた。
「ど、ゆうこと?」
普通に答えたはずなのに声が掠れた。笑顔を向けたはずなのに顔が釣るのを感じる。
先ほどとは打って変わって体の振るえも動悸もまったくしない。音も息も心音さえも静まり返って、震えどころか指一本 さ
え動かない。本当に不気
味なほどあたしの体 は止まってし
まっていた。
なのに頭の中は何かが激しく警鐘を鳴らしていた。なんでもないはずなのに、なんでもないはずなのに何か嫌な汗が溢れてくる。
「僕は僕 なんだけど、本
当はボクってことに気づいてないよね 、
君は」
ため息をついて、面倒くさそうな笑いを浮かべる彼。
あたしはわけがわからなかった。ただ、妙な焦燥感がして慌てて何かを口にしようとしたんだ。なにか、言わないと不吉な予感がした。
「いいや――」
でも……
「本当は気づいているね ?」
そう言ってこちらを見てくる彼に、あたしは思考が止まってしまった。
長く刻み込まれたように釣りあがった笑み。純粋にあたしを食い入るように覗き込む、彼の瞳。
彼のはずなのに、彼のはずなのに、彼のはず――――な、のに……。
歪んだ何かに あたしはぞっと背
中に悪寒が走った。
あたしの中で何かが警戒音を鳴らす 。
この人は
このヒト は
コノヒトハ
メノマエニイルモノハイッタイ……
――――――――――――――――――……ダレ ?
「ここがどこか 、わ
かるかな ?」
優しい笑顔、こつんと額に彼の額が当てられた。
「――――っ!!」
生温い息がぬるりと、首を――
「来んなあああああっ」
バキッ
「え」
自分の手に感じた感触と、聞こえてきた衝撃音に違和感がした。確かにあたしは彼の顔を殴った。衝動的に、本能的な何かを感じて恐怖して、本気で殴ってし まったのかもしれない。けれど、骨が折れるような音がするほど強く殴っていないはずだった 。
そもそも自分にそんな馬鹿力は、ない。それに、手に感じた氷のような冷たさ。人肌にはない、生きた感触のしない柔らかな衝撃。
しかしそんな違和感はすぐさま別の恐れにすり替わった。もしかしたら力の加減と場所を間違えて鼻を折ってしまったのではないか。不安になり慌ててあたし は彼に向き直った。
「ご、ごめ―――……」
でもそこであたしは絶句した。
「――――ぅっっっっ!?」
だって、だって……
「あア――、ちょっとカおが変形シチャったじゃなイカ?」
それは一瞬、誰かわからなかった。でもそこには彼 が
いた。顔面の潰れた彼 がいたのだ。そう、あ
たしが殴った痕がくっきりと、歪に、のめり込
んだ、潰れた顔。なのに楽しそうに嬉しそうにその瞳はこちらを見る。
「みて見テー。僕のかオすゲェことにナッてるぅ」
――ぞくっ
悪寒と共にどっと血液が激流する感覚、警鐘のように鳴り打つ心臓。時が一気にあたしの中で動き始めた。
あたしは隣の彼に笑顔を向けた。彼はそんなあたしににこりと微笑んでくれた。
今日は良いこと尽くめだった。今まで連絡を取るだけだったけど、こうして平日に、しかも他の知り合いを交えないで会えるなんて思いもしなかった。それは 学校が違うからだ。小さい頃は一緒だったけど、今はお互い別の学校に通っている。だからいつもは誰かと一緒か、たまに電話で話したりメールでやり取りと言 うくらい。それに彼女もいるしね、気があるって思われても困るから。あたしは確かに巴雅が好きだけど、気の合う『友達』って意味だから。
本当に飽きれるほど楽しかった。まずは遊園地へ行って一日中遊びまわって、カラオケも行って、一緒にご飯も食べて……。
楽し過ぎる、時間だったと思う。
手に彼の体温を感じながらそっと握り返した。そんなちょっとした行動も普段とは違って、本当はとても勇気がいった。幼稚園の時から彼と手を繋ぎ慣れ ていた前までのあたしは、そんなに気にしてなかった。けれど今は彼女がいるしね、ちょっと悪い気がする。正直さっきから心臓がヤバイ。
あれから町の中を歩いていて、ふいに彼が空を見上げたかと思うと雨が降ってきた。
晴れているのに、ぽつぽつと降り始めた雨はお天気雨。撫でるように降る霧雨。
晴れてるのに雨だなんて、変な天気。あたしはなんだかしとしとと降る雨に空いた手をかざした。
あたしの心は雲すらない紛れもない晴れ。自分の心境とちょっと違う天気なのに、なんだかお似合いだって心のどこかで思ってしまった。うん、今日はなんだ か変に楽しいから。
あたしは彼を見た。すっと細められた目は空を見上げてそれは楽しそうに笑っていた。そんな彼のちょっとした表情の変化にもドキリと汗が出てくるほど緊張してしまっ て、あたしは早鐘のように鳴る心臓をなんとか落ち着いてなだめようとした。
「お天気雨だねっ。なんだか珍しい!」
くいっと彼の手を引くと、あたしは少し不自然な口調になっていた。
「そうだね。でも面白いじゃないか? 狐の嫁入りなんてあんま見れるもんじゃねーし」
そう言って彼はこちらに微笑んできた。優しく細められた茶色の目を見ると、ぞわりと胸が騒いだ。彼の顔を見ると、なんだか落ち着かない。大好きな目のは ずなのにまともに見られない。
「き、狐の嫁入り、って……」
それでも何か話そうとろくに考えもせず口を開いたら出た言葉がそれだった。うまく息が出来ない。
「ん? 知らないのか?」
首をかしげてくる相手に俯きながらうわずった声であたしは言った。
「じゃ、なくて。なんで狐の嫁入りって呼ばれるんだろうなぁって」
彼の顔を見てないのに動悸が治まらないあたしは、下を向いたままだった。なんでそんなことを聞いたんだろう。そんなのどうでもいいのに。
見るからに変な態度をしていただろうから、変な子と思われたんじゃないかと考えてしまった。狐の嫁入りなんて聞かなきゃよかった。あたし、どうかして る。それに『狐の嫁入り』なんて、なんだか嫌な感じだ。
彼と繋いだ手も汗ばんできた。うわ、やだ。気持ち悪い、急に汗かくなんて。なんか震えてきたよ、手。
すると上から彼がくすっと笑う声が聞こえた。どんな顔をしていたかなんて知らないけど、笑っていた。
「さぁ、僕にはどうしてだかわからないなぁ」
その声にはっと顔を上げると、すっと細められた目が飛び込んできた。そう、彼の顔が至近距離にあったんだ。鼻がくっつきそうなほど近くにいた。
「――――っっ」
冷や汗がしてあたしは慌てて後ろに下がった。急に目の前にいるなんて、び、びっくりした。怖いほど心臓が脈打った。
そんなあたしに再びくすくすと笑うと、彼は動揺するあたしをぐいっと引っ張った。そしてにこりと笑うと前へ向いて歩き出した。
『黙って手を引いて、ちょっとだけこちらを見て笑ってから歩く』
それが彼の『行きたい所があるからついてきて』というシグナル。彼はそれでよく面白いところへ連れて行ってくれるんだ。
あたしは更に高鳴る心臓を抑え切れなかった。これから行くとこ、すること。それを考えるだけで、なんだか動悸が先程より増していた。
きっと彼ならどんな所でも面白い所だ。そう、きっとそう思ったから動悸が止まないんだ。そう、きっとそうなんだ。
そう自分に言い聞かせることに精一杯で、内心を悟られないよう必死に笑顔を向けるのに集中していた。気持ちを誤魔化そうとしたから変な歪んだ笑顔になっ てしまっていたかもしれない。だから彼が人気のないところへ行ってもあたしは大して気にしなかった。もちろん、心臓はこれでもかというほど、飛び出てしま うんじゃないかと言うくらい脈打っていた。
「は、
歩く速度はゆっくりのはずなのに、息が上がっていくあたしは彼を見た。
「どうした? 気分悪いのか」
あたしの様子に気づいたのか、ぴたりと立ち止まって彼は振り返った。それと同時にあたしも止まり、胸に手を当てると必死で息を吸いこんだ。
「大丈夫か」
彼の戸惑いの気配を感じながらあたしはしゃがみ込んだ。うまく息ができない。苦しい、頭が痛い。
痛みに耐えたけど、しばらく頭痛と息苦しさは続いた。かすかに視界がぼやけてきた。しかし、痛みを押し出すように吐き出した。すると妙にだんだん力が抜 けてきた。
「いやっ、気持ち、わる」
必死に体に力を入れようとした――――
瞬間
ひやりとと頬が何かに包まれた。
そのとたんにあたしの体は時を止めたように固まった。
顔を上に向けられて目の前にいたのは、覗き込むようにあたしの目を見ていた彼。彼はしゃがみ込んであたしの顔に両手を添えた。昔から変わらない優しい表 情。
「ね、そろそろ気づかないかな」
優しく囁くように言う彼の声が耳に届く。かすかに吐息があたしの頬を撫でた。
「ど、ゆうこと?」
普通に答えたはずなのに声が掠れた。笑顔を向けたはずなのに顔が釣るのを感じる。
先ほどとは打って変わって体の振るえも動悸もまったくしない。音も息も心音さえも静まり返って、震えどころか
なのに頭の中は何かが激しく警鐘を鳴らしていた。なんでもないはずなのに、なんでもないはずなのに何か嫌な汗が溢れてくる。
「
ため息をついて、面倒くさそうな笑いを浮かべる彼。
あたしはわけがわからなかった。ただ、妙な焦燥感がして慌てて何かを口にしようとしたんだ。なにか、言わないと不吉な予感がした。
「いいや――」
でも……
「
そう言ってこちらを見てくる彼に、あたしは思考が止まってしまった。
長く刻み込まれたように釣りあがった笑み。純粋にあたしを食い入るように覗き込む、彼の瞳。
彼のはずなのに、彼のはずなのに、彼のはず――――な、のに……。
この人は
この
コノヒトハ
メノマエニイルモノハイッタイ……
――――――――――――――――――……
「ここが
優しい笑顔、こつんと額に彼の額が当てられた。
「――――っ!!」
生温い息がぬるりと、首を――
「来んなあああああっ」
バキッ
「え」
自分の手に感じた感触と、聞こえてきた衝撃音に違和感がした。確かにあたしは彼の顔を殴った。衝動的に、本能的な何かを感じて恐怖して、本気で殴ってし まったのかもしれない。けれど、
そもそも自分にそんな馬鹿力は、ない。それに、手に感じた氷のような冷たさ。人肌にはない、生きた感触のしない柔らかな衝撃。
しかしそんな違和感はすぐさま別の恐れにすり替わった。もしかしたら力の加減と場所を間違えて鼻を折ってしまったのではないか。不安になり慌ててあたし は彼に向き直った。
「ご、ごめ―――……」
でもそこであたしは絶句した。
「――――ぅっっっっ!?」
だって、だって……
「あア――、ちょっとカおが変形シチャったじゃなイカ?」
それは一瞬、誰かわからなかった。でもそこには
「みて見テー。僕のかオすゲェことにナッてるぅ」
――ぞくっ
悪寒と共にどっと血液が激流する感覚、警鐘のように鳴り打つ心臓。時が一気にあたしの中で動き始めた。