あたしは気づいたんだ。
「なニなに? 震えルほどオモしろい? なら……」
にたぁと潰れた笑いを浮かべる彼。
「コレはドう?」
ぷちぶち……ぶちぃっ
瞬間、彼――いや、
関節を無視して逆に曲がった足。見るからに歪に腹の上から横にずれた胸部。後ろに折れ曲がった首、玉結びされた腕。脱臼して外れてもまだ伸びる指……。
「うぐぅっ」
なのに。
どこからも骨が突き出るおろか血さえ出てこない。普通ならおびただしい出血が滝のように出てもおかしくないのにただ、圧迫された皮膚は――
「おもしロイでしョオもしろいでしょおもしロイヨね?」
限界まで膨れ上がり内側から圧迫された皮は、破れることもなく、紫色に変色しながら四方に、ゴム風船のように
「ひゅっ」
あたしはただ震えて、変形した『生もの』を見るだけしかできなかった。カタカタと口が震える。もはや人間の姿を留めていない。これは、彼なんかじゃな いっ。
なおも顔だけはあたしが殴った痕を残して潰れたまま、形を留めていた。歪に歪んだ顔が、充血した目が、こちらに同意を求めるようにただ、純粋に、無邪気 に、面白そうに、嬉しそうに、楽しそうに、愉快、爽快に――――笑っていた。
「アハは、やっぱ面白イよネ?」
もはや、これはあたしが知っている彼ではない。あたしの知らない
「んじゃコれはドウ? コレは? こレはっ?」
ぷちぶちぶちぃいいいいいいっ
やめて……
体に力が入らなくなり、その場にずり落ちた。
彼ではない、彼ではないのに、
体の奥が凍りつくのを感じた。
「あ、骨がツキでてないとオカシイよな?」
べこベキ……バキップツッ
やめて……
目をつぶっても生々しく耳に響く、骨の砕け折れる音、
耳を押さえるとあたしは必死に逃れようとした。でも震える手はうまく耳を抑えることができず、隙間から容赦なく入ってくる。
「あ、血もナクちゃナ」
歪んだ声は楽しそうに言う。
べちゃぁぼたぼたぼたぼたぼた……
吹き出る
やめろ……
「……かァねがなるゥ。ぴッち、ぴっチ……」
愉快に体を引き伸ばしながら歌う声。
ぶツッ……バキっ…
硬い何かが折れる、太い糸が切れる音。
「チャっぷちゃップ?」
おどける声は笑いを含み――――……
ぼたぼた……
――絶え間なく滴る音と鉄の錆びれたような臭いが鼻腔を突く。
やめっ……
震える手で必死に耳をかき集めるように押さえた。でもそれはふさがれることなく、爪の間にぬるりとした物がつく感触がした。両手は耳で塞がれたため、む せるほどの生々しい臭いにあたしは顔を膝に押し付けた。
その顔で、その顔でそんな……
急に間近で気配がしたかと思うとなにやら手とも足ともつかないものががっとあたしの顔を上に向けた。
その感触と反動で思わずあたしは固まり、目を開けてしまった。わかっていたのに、目を開けたらどんなモノが目に入ってくるかなんて、わかっていたはずなのに。
「らん、らン……」
目の前には窪んで歪んだ顔、除きこむ様にこちらを見る充血した目。
その瞳は心底楽しそうに笑っていた。
ぼたぼたぼた……
足や胸に相手の滴る血液や体液がかかってくる。
ぼたぼたぼた……
そして、歪んだ顔がこちらにニィィと笑みを浮かべ近づいてき――……
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!!」
「止めろ
「っ!?」
火事場の馬鹿力で相手を突き飛ばし、『彼』から逃れると
鮮烈な存在感、鋭く射るような目。
何……この人。
あたしはガタガタと恐怖のあまり震えた。もし自分にその視線が向けられていたら息も出来なくなりそうだ。そうでない今も、なんだか息苦し い。
でもなによりも怖かったのは、目の前の人物の存在が目にしている今になっても、
「
その声にあたしはばっと後ろを見た。今度は二・三十代のショートカットの女。灰色のスーツに身を包んだ彼女は苦笑していた。
その上言い知れない存在感を出していた。なのにまたこの人にも気配がなかった。しかも彼女もまた、『
そこであたしは気づいた。気配も感じられなかったのに、鮮烈な存在感がある彼らに今まで気づかなかった自分自身を疑った。
彼らは――――
底冷えするするような寒さが全身を駆け抜けた。
「あっハだよネ」
「余計なことを言うな
「うっわ、なにその出で立ち。あり得なくない?」
「うフフ、ボクの新しイふぁっしょン。どう? ステキでしョ?」
『有り得ない』と言いながら呆れた顔を浮かべる女。彼女に答える『彼』。
和んだ風に話す彼らに、あたしは怖気がした。
あんな格好で、人間でない姿なのに、平気で、何事もなく『彼』と話す彼らが不気味に見えた。
鳥肌が立つ。そんなに寒くはないはずなのに体が――――――凍える。
そう直感するとあたしは少しずつ後ろへ下がっていた。逃げないと、彼らから逃げないといけない。
「とりあえず、その悪趣味な格好を止めろ見苦しい」
「えぇェ? ボクは気にイってたンダけど」
白に身を包んだ長髪の男が侮蔑の眼差しでヤツを睨むと、ヤツは心底残念がるように声のトーンを落とした。逃げるなら話に夢中である、今しかない。
「今回の『
「いやいやその人の姿を逸した奇想天外奇天烈珍奇な体形がおかしいんだって」
「あァー。ナるゥ?」
女の言葉にぽんっと手を――――もっとも手とは言いがたいけど打つと、ヤツは無邪気に歪んだ笑みを浮かべた。あたしは足に力を込めて逃げる体勢になっ――――……
「じゃっ治スっ」
ヤツはにっこり笑みを浮かべながら両手を広げた。
バキバキバキ……ブチッ
目の前でぐるぐるとくねる体、時を巻き戻したように粘土のように元に戻っていく骨、皮膚そして――血。
ぼたぼた……バキ、ぐちぃ
回転する手足、蠢く臓物と生き物のようにあらゆる方向から体に吸収される血。瞬く間に『彼』の体は
あたしは胸からこみ上げる嘔吐感を必死で耐えた。唇が振るえ、息が上がる。なのに意識は研ぎ澄まされたまま、逃げることを忘れてあたしはその場で固まっ ていた。
「どうかな?」
期待するような笑みを浮かべ、ヤツは二人に向かって言った。その『彼』の声も元の彼のものに戻っている。
そしてその姿は紛れもなく普通の人間のもので、一寸違わず、来ていた服さえも破れた跡もなく綺麗に元通りになっていた。――いや、むしろ服も体も、
「あ、結構いい男」
「そ! 十代後半のおいしいお年頃!」
「う、ごめん。見た目と態度のギャップが気持ち悪いほど合わない」
『彼』の言葉に顔を引くつかせる女。しかし、先程の出来事に対して動揺する様子は微塵もなかった。
おかしい、絶対おかしい。先程の『彼』のしたことを見たら、そんな普通に会話をするなんて有り得ない。
あたしは指先が冷えるのを感じた。きっとこの女も男も、『彼』と同じで人間じゃない。
逃げないと。
それを思い出すとあたしは震える体に力を込めて、這うように彼らから身を動かした。今ならまだ奴らは気づいていない。
「でもボクはボクだし。ねね、
喜々としてヤツは笑顔で男に聞いた。
あたしは意を決めると、足に力を入れ――――
「遊ぶのもいい加減にしろ」
静かな怒気が空気を震わした。
彼らから少し離れているあたしにでさえ戦慄を覚えるほど冷たく、底から這い上がってくるような恐怖がこみ上げて来た。奥歯ががちがちと震える。体が、動か ない。
「標的が逃げるだろうが」
その言葉を言うと、すっと男の視線があたしの方へ向けられた。
――ぞくっ
その時あたしは気づいた。あたしは逃げ損なったのだ。
「あーでもね、ボクちゃんと頑張ったんだよ? ちゃんとボクにしては作戦考えて、実行してみた。けどさー」
「効いてないな
皮肉るように言う男。額に冷たい汗が滲む。
「だってなんかしつこいよ、今回の。全然離れないんだもん
――――魂魄が」
え?
その言葉にあたしは固まった。『彼』は『魂魄』と言った。いったい何の話だ。
意味がわからず、ただ、背中に冷たい風が通った感触がした。
「折角出血大サービスして芸をお披露目したのにな。ちっとも体から出ようとしない」
「あの悪趣味な
「うん、ボクのサービス魂が伝わらなかった」
離れない? 魂魄?
『彼』が言った言葉に妙に胸が騒ぐ。『魂魄』とはいったいなんの、誰のことだ。全く、なんのことかわからない。
「余程
心底感心するような顔を向けると、灰色の女がまじまじとあたしを見た。悪意があったわけじゃないのに、その視線にとても落ち着かない気持ちになる。
なんなんだろう。この人達――いやこの人間でない得体の知れない者達はいったいどうしようと言うのだろう。『魂魄』を、誰の――――……
あたしは行きたくない結論にたどり着きそうになって、必死に考えまいとした。
「仕方ない、
白の男の冷たい声が鼓膜に響く。
「―――――――――
「え」
男の言葉に、あたしの中の何かがびくり、と反応した。頭が痛い。なにがなにがなにが……いったい……。
「んじゃ、キョーセー剥離ってやつだね」
にっこりと楽しそうに笑う『彼』。それはくるりと向きを変えると、あたしを見た。
あの獲物を見つめるような、冷たくて、怖い、目。
「あ、君。もう大丈夫だから安心して。
ガタガタと震えだす体を抱きしめながら、あたしは耳鳴りがする頭を女の方へ向けた。彼女の笑み。焦燥感が募る。
それは……それは……?
「うれしーでしょ? この『仮初』ね、実は
褒めてと言わんばかりにこちらに優しく顔を向ける『彼』は、不気味な笑みを浮かべた。『彼』が近づいてくる。
瞬間あたしは背筋に恐怖が這い上がってきた。心臓が狂ったように鳴る。呼吸がまともに出来ない。
逃げたい。逃げたい逃げたい逃げたい逃げたいっっ。
怖い、『彼』の笑みが、瞳の奥の歪んだ色が、『彼』の放つ言葉一つ一つが……あたしを脅かす。あたしを喰らおうとしている。
「あ、気を抜いてリラックスして? ちゃんと
そっと掴まれた肩をあたしは払うことが出来なかった。『彼』の瞳を見たまま、凍り付いてしまったんだ。綺麗に歪んだ、ゾッとするほど純粋な瞳に。
――逃げられない。
震える口からあたしは必死で助けを呼ぼうとした。けど――――
「あ、あ、あ、あ、あ、あ」
出てきたものは連続的な音。言葉に、ならなかった。
「ほらそんな気を張らないで。じゃないと――――」
そっと囁くように『彼』は耳元に顔を寄せた。
耳を生温かい風が、撫ぜる。
「――
「……え?」
ドクン
『彼』の言葉が頭の中をこだました。波紋が広がるようにどっと汗が全身から吹き出る。
どういう、こと?
「あ、やっぱりこの子気づいてなかったみたいね」
「ふん。愚かなものだな」
そばで女が呆れた笑みを浮かべ、男が侮蔑を込めた言葉を吐くのが聞こえた。
頭がくらくらする。爆発しそうだ。
「ど、ど、いう、意味」
呼吸がままならない。自分の体がうまく動かせない。まるで他人の者になった気分だ。自分の体のはずなのに自分の体なのに自分の体じゃ――――――……
あたしは愕然とした。
――――な、い?
「ねぇお姉さん」
はっと気がつくと、『彼』はとても柔らかく優しい笑みを浮かべていた。あやすような甘い、声。
身動きが出来ない。視線だけしかあたしの自由にならない。
その視線がふいに『彼』の後ろにいた女を捕らえた。彼女は手には円形の鏡を持っていて、こちらに気づくと、あたしにそれを見せた。
それはドッヂボールほどの大きさがあった。そしてその鏡には自分が映っていた――――はずだった。でもそこには巴雅が
「その体はお兄さんのものだよ」
『彼』の声が響いた。
ど、どうして?
顔に手を添える。すると鏡の中でへたり込んだ方の彼も、顔に手を添える。
「奪い取っちゃいけないでしょ?」
どうして? どうしてどうしてどうし……どうし、て。
『彼』の声がぼやけて聞こえる。頭が熱い。
なら、この体を持っているあたしは、あたしは……あた、し、は?
頭の中が真っ白になる。
「だって君はすでに――――」
くすりと笑う声と共にあごを取られ、『彼』の方に顔を向けられた。
細められた純粋で、無邪気な瞳が、目の前に映る。
「死んでいるんだからね」
ドクン……
血の気が一気に引くような感じがした。唇が震える。
「な、なに言って……」
「ボクはさぁ……
「ふっぐ」
うんうんとうなづきながら言う『彼』。ほんの些細な動きさえ、もはやあたしにとっては恐怖でしかなかった。体が冷たい、震える、視界がぼやける。怖い。
「ね? お兄さんに体、返してあげよ?」
優しい笑顔を向けた彼はなだめるように、頭を撫でた。あたしは震えたまま、『彼』の目に釘付けになったまま動けない。
そんなあたしに笑顔のまま『彼』は目をすっと細めた。
『彼』の手がそっと『あたし』の胸に当てられて――――
ぬぷ……
「いあああああっ」
「痛くないでしょ。ちょっと苦しいかもしれないけど我慢我慢。じゃないと遅くなればなるほど辛くなるからね」
楽しそうに愛しそうに目を細めるとヤツは抵抗するあたしにびくともせず、さらに奥へ手を埋めた。
ずずぅぅ……
「ひぃぃぃっ」
びくりと痙攣する手足は、もはやそれ以上動かすことができなくなった。視界が歪に曲り、嘔吐感と共に全身が冷たくなる。頭が熱い。視界が歪むっ。
「うーんここかなぁ? いや、ここ? ここ? あ、あった」
手探りに何かを探すようにすると、彼は何かを見つけたようだ。にこりと微笑むと彼は優しく、慈しむように更にゆっくりと奥に手を入れた。
「がっ」
ふいになにかが『あたしの中』のものを掴んだ。びくりと体が震え、途端にガタガタと痙攣が激しくなる。
ずぷ……
ああ、もうお終いだ。変な浮遊感と共にあたしは震える体の感覚が段々なくなっていくのを感じた。
どこか遠くで『あたしの体』から彼の手が抜き取られるのを感じた。白濁する意識の中――――爽快感のようなものが奥から湧き上がった。
つぷ……
「お疲れ様、お姉さん。おめでとうお兄さん」
無邪気で嬉しそうな声を