* * *
「お子さん気がつかれましたよ」
そんな声が聞こえたかと思うと、目の前に泣き腫らした母親とはっと覗き込んでくる父親の姿が飛び込んできた。
「よかった……もう、駄目かと」
脱力して僕を抱きしめてくる、いつもなら冷静な父親の熱のこもった言葉に少々戸惑いながら僕はあたりを見た。母も 僕の手を握ってまだ泣いていた。
「その、僕は……」
状況がわからず、ただ呆然としていた。
白い部屋、ベッドに横たわる自分。
僕はおそらく病院にいるのだろう。そう思いながら徐々に僕は思い出した。
自分は散歩中に倒れていたことを。そして病院に運ばれた。確か……そう、男性に言われた気がする。
でも、何か肝心なことを僕は忘れていた気がした。
とてもとても、大切な記憶を。
「君はね、約七ヵ月間 意識不明に
なっていたのだよ」
そう医者らしき人が言った。今更ながらその存在に気づいた。
僕は不思議と、告げられて事実にそんなに驚きはしなかった。なぜだろう、僕の中にあるなにかしらが納得させていた。それはなんだか靄 がかかった
ように正体がわからなかったけど。
「なぁ……」
その靄の先が見えなくてもどかしくなった僕は、その思いを払拭すべく両親に言った。
「誰か、ここに来てなかった?」
「誰かって……」
あれ?
僕は不思議そうに顔を傾げる両親をよそに、自分が言った言葉に変な感触を覚えた。僕はなにが聞きたいのだろう。
必死に忘れてしまった何かを思い出そうと、記憶を探った。誰か……そう、僕は今まで誰かといた気がする。
少し靄の先が見えた気がしたけどそれはすぐに見えなくなってしまった。その後いくら頑張ってもそれ以上先へは進めなかった。わかったのは僕が誰かと、そ れも数人といたということ。
「ああ、そう言えば生津さんもつい先ほど来てらしたわ」
「ん……?生 ……津 さ
ん?」
母の言った名前に僕は聞き覚えがあった。そう、確か……
「もしかして僕を発見した人……」
「覚えているのか」
少し意外そうな顔で父が言った。確かに不思議かもしれない。でも生津さんに会った時、僕はある程度ちゃんと意識があった。そう、思い出した。
「うん。それにしてもあれから、七ヵ月もたったんだ……」
今更ながら僕は少し驚いた。彼と会ったのは数時間前だった気がしたのに、だ。
そこで僕は再び顔をしかめた。
違う。僕が忘れた会っていたはずの誰かは生津さんではない。
「あの、さ」
なんだか自分でも不明瞭な記憶のことについて聞くことが少し躊躇われて、僕は一間を置くと意を決して聞いた。
「他にも誰か来てなかった?」
「え?」
「僕の知り合い」
またもや変なことを聞く僕に両親は顔を見合わせると、納得したように笑顔で父が言った。
「ああ、彼女なら毎日来ていたよ」
「そっかあいつ、来てくれたんだ……」
嬉しさで顔がゆるむと同時に、申し訳なさも感じながら心に温かいものがこみ上げた。しかし、そこで僕ははっとする。違う、もう少し違う誰かだ。
「じゃなくて他は」
「友達も何回か見舞いに来てくれてたわよ。いい友達を持ったわね」
母の『友達』と言う言葉に僕の中の何かが反応した。切ないような、締め付けられるような感覚。でも彼女が言う『友達』とは何か、違
う 気がした。
根本的に何かが違っていた気がした。
それに僕が思い出したい相手は親しい相手だけじゃない。
「だから……そうじゃなくて」
「誰か他にいるのか?」
あまり僕が妙な質問を繰り返すものだから、終いに父が訝しむように眉間に皺を寄せた。確かに僕の質問は、おかしい。僕はいったい両親が誰を答えることに 期待しているんだろう。
「……誰か、えーっと、その、誰かって言うか……」
そう自問するとなんだか自分が滑稽なことをしているような気がしてきた。僕が思い出せない相手を、両親に聞いてわかるわけがない。
それでも、僕は思い出したかった。
誰かに助けられた気がしたから。
誰かが哀しそうに笑っていた気がしたから。
「とりあえず、誰か……他に来てなかった?」
手を握り締めると、僕は笑顔で言った。手を握り締めると、なぜか切なくなった。
真剣な様子の僕に両親は困ったような表情を浮かべ、傍にいた医者に顔を向けた。
「記録では、先程言われた巴雅さんの学友や家族の方、生津さん以外は誰も来られていないとは思いますが」
苦笑しながら言う医者に、予想していた言葉が返ってきた。彼らが知ってるわけがなかったんだ。
「そうですか……変なこと聞いてすみません」
僕はバツが悪そうに笑った。なんだか妙な寂しさがこみ上げてきた。
「ではそろそろ……」
医者は区切りがついたことを見計らって言った。それから少々なにか両親は医者と話して僕から離れて部屋を出て行った。
それをどこか遠くで僕は感じていた。
何かとても大切なことを忘れている。けれど、それがわからない。忘れたことがわからない。
そこでふいに、僕は今でも生津さんが僕の見舞いに来てくれている事実に気がついた。確か母は先程来ていたと言っていた。発見者と言うだけで七ヵ月も経っ ているのに見舞いに来てくれている。あの温和な雰囲気の彼を思い浮かべながら、僕は彼との会話を回想した。
『確か……巴雅の家からそう離れていない……川沿いの、墓地の近く……だね』
あ……?
そこで僕は思い出した。そう、僕は散歩していて墓地の前で倒れたんだ。しかも僕の大切な友達の墓を見た瞬間。
ちくりと胸が痛んだ。
病み上がりとは言え、彼女の死を忘れていた自分が悔しかった。その事実をがとてもなく、情けなかった。
「もう、忘れないから……」
僕は誰ともなく呟いた。それは彼女に頼まれたわけじゃない 。
でもその言葉を言ったとき、以前に感じていた喪失感がなく
なった 。これでよかったんだと、そんな気がし
た。
僕は病室の窓の外を眺めた。晴れているのに雨が振っている。お天気雨だ。確か『狐の嫁入り』とも言うんだっけ。そんなことを考えていると何故か、僕は 知らない誰かにそっと感謝したくなった。なぜそう思ったのかわからない。
そして雨に濡れた紫陽花を見て、僕の心に切なさ と小
さな温もり が残った気がした。
「お子さん気がつかれましたよ」
そんな声が聞こえたかと思うと、目の前に泣き腫らした母親とはっと覗き込んでくる父親の姿が飛び込んできた。
「よかった……もう、駄目かと」
脱力して僕を抱きしめてくる、いつもなら冷静な父親の熱のこもった言葉に少々戸惑いながら僕はあたりを見た。母も 僕の手を握ってまだ泣いていた。
「その、僕は……」
状況がわからず、ただ呆然としていた。
白い部屋、ベッドに横たわる自分。
僕はおそらく病院にいるのだろう。そう思いながら徐々に僕は思い出した。
自分は散歩中に倒れていたことを。そして病院に運ばれた。確か……そう、男性に言われた気がする。
でも、何か肝心なことを僕は忘れていた気がした。
とてもとても、大切な記憶を。
「君はね、
そう医者らしき人が言った。今更ながらその存在に気づいた。
僕は不思議と、告げられて事実にそんなに驚きはしなかった。なぜだろう、僕の中にあるなにかしらが納得させていた。それはなんだか
「なぁ……」
その靄の先が見えなくてもどかしくなった僕は、その思いを払拭すべく両親に言った。
「誰か、ここに来てなかった?」
「誰かって……」
あれ?
僕は不思議そうに顔を傾げる両親をよそに、自分が言った言葉に変な感触を覚えた。僕はなにが聞きたいのだろう。
必死に忘れてしまった何かを思い出そうと、記憶を探った。誰か……そう、僕は今まで誰かといた気がする。
少し靄の先が見えた気がしたけどそれはすぐに見えなくなってしまった。その後いくら頑張ってもそれ以上先へは進めなかった。わかったのは僕が誰かと、そ れも数人といたということ。
「ああ、そう言えば生津さんもつい先ほど来てらしたわ」
「ん……?
母の言った名前に僕は聞き覚えがあった。そう、確か……
「もしかして僕を発見した人……」
「覚えているのか」
少し意外そうな顔で父が言った。確かに不思議かもしれない。でも生津さんに会った時、僕はある程度ちゃんと意識があった。そう、思い出した。
「うん。それにしてもあれから、七ヵ月もたったんだ……」
今更ながら僕は少し驚いた。彼と会ったのは数時間前だった気がしたのに、だ。
そこで僕は再び顔をしかめた。
違う。僕が忘れた会っていたはずの誰かは生津さんではない。
「あの、さ」
なんだか自分でも不明瞭な記憶のことについて聞くことが少し躊躇われて、僕は一間を置くと意を決して聞いた。
「他にも誰か来てなかった?」
「え?」
「僕の知り合い」
またもや変なことを聞く僕に両親は顔を見合わせると、納得したように笑顔で父が言った。
「ああ、彼女なら毎日来ていたよ」
「そっかあいつ、来てくれたんだ……」
嬉しさで顔がゆるむと同時に、申し訳なさも感じながら心に温かいものがこみ上げた。しかし、そこで僕ははっとする。違う、もう少し違う誰かだ。
「じゃなくて他は」
「友達も何回か見舞いに来てくれてたわよ。いい友達を持ったわね」
母の『友達』と言う言葉に僕の中の何かが反応した。切ないような、締め付けられるような感覚。でも彼女が言う『友達』とは何か、
根本的に何かが違っていた気がした。
それに僕が思い出したい相手は親しい相手だけじゃない。
「だから……そうじゃなくて」
「誰か他にいるのか?」
あまり僕が妙な質問を繰り返すものだから、終いに父が訝しむように眉間に皺を寄せた。確かに僕の質問は、おかしい。僕はいったい両親が誰を答えることに 期待しているんだろう。
「……誰か、えーっと、その、誰かって言うか……」
そう自問するとなんだか自分が滑稽なことをしているような気がしてきた。僕が思い出せない相手を、両親に聞いてわかるわけがない。
それでも、僕は思い出したかった。
誰かに助けられた気がしたから。
誰かが哀しそうに笑っていた気がしたから。
「とりあえず、誰か……他に来てなかった?」
手を握り締めると、僕は笑顔で言った。手を握り締めると、なぜか切なくなった。
真剣な様子の僕に両親は困ったような表情を浮かべ、傍にいた医者に顔を向けた。
「記録では、先程言われた巴雅さんの学友や家族の方、生津さん以外は誰も来られていないとは思いますが」
苦笑しながら言う医者に、予想していた言葉が返ってきた。彼らが知ってるわけがなかったんだ。
「そうですか……変なこと聞いてすみません」
僕はバツが悪そうに笑った。なんだか妙な寂しさがこみ上げてきた。
「ではそろそろ……」
医者は区切りがついたことを見計らって言った。それから少々なにか両親は医者と話して僕から離れて部屋を出て行った。
それをどこか遠くで僕は感じていた。
何かとても大切なことを忘れている。けれど、それがわからない。忘れたことがわからない。
そこでふいに、僕は今でも生津さんが僕の見舞いに来てくれている事実に気がついた。確か母は先程来ていたと言っていた。発見者と言うだけで七ヵ月も経っ ているのに見舞いに来てくれている。あの温和な雰囲気の彼を思い浮かべながら、僕は彼との会話を回想した。
『確か……巴雅の家からそう離れていない……川沿いの、墓地の近く……だね』
あ……?
そこで僕は思い出した。そう、僕は散歩していて墓地の前で倒れたんだ。しかも僕の大切な友達の墓を見た瞬間。
ちくりと胸が痛んだ。
病み上がりとは言え、彼女の死を忘れていた自分が悔しかった。その事実をがとてもなく、情けなかった。
「もう、忘れないから……」
僕は誰ともなく呟いた。それは
僕は病室の窓の外を眺めた。晴れているのに雨が振っている。お天気雨だ。確か『狐の嫁入り』とも言うんだっけ。そんなことを考えていると何故か、僕は 知らない誰かにそっと感謝したくなった。なぜそう思ったのかわからない。
そして雨に濡れた紫陽花を見て、僕の心に